いまひとたびの 24



「いやです!」
考えるより先に、あかねは言い放った。

道摩の言の葉に塗り込められた、ざわりとした感触。
それをとっさに振り払ったのだ。

道摩のぎょろりとした目が、歪に細められる。

「いや……とな?
汝の真名によりて、吾は命じたのだ。
これより先は吾に従え。
吾が言の葉を祓うなどできぬ」

「あなたの言いなりにはならない!!」

道摩の術なのか、その内から放たれる力のためか、
身体が痺れたように動かない。
それでもあかねは声を振り絞った。

これまで抑えてきた怒りがふつふつとわき上がっている。

――たとえ無力でも……
今は私が立ち向かうしかない。

この、怖ろしい人に勝つことはできなくても……
泰明さん……私、
絶対に折れないから!!





雨に煙る安倍屋敷に、泰明を伴って頼久とイノリが到着した。
そこに友雅の来訪が告げられる。

意識を取り戻した泰明が部屋の隅にちんまりと座り、
晴明を中心に全員が顔を揃えた。
慌ただしく吉平が加わったところで、
友雅は前置き無しで紙を広げた。
そこには何かが細々と書き連ねてある。

「治部少丞殿に極秘裏に調べていただきました。
京にある右大臣殿の地所の全てです」

「じぶのしょうじょうって誰だ?」
「鷹道殿のことだ」
耳慣れぬ言葉に首を傾げたイノリに、庇から頼久がそっと耳打ちする。

「へえ。
で、鷹道がなぜ右大臣サマのことなんか調べたんだ?」

「おそらく、このどこかに神子殿がいるのだよ」

「えええっ……!?」
「神子殿が、右大臣殿の……!?」
イノリと頼久は腰を浮かせる。

「や、やはり……うだいじんどの……ああ、どうすれば……」
吉平はぶるっと身震いした。
それにつられて傍らの文箱もかたっと鳴る。

「ふむ……さすが右大臣殿。屋敷だけでもかなりの数じゃ。
しかも京の各所に点在しておるか……」

「洛中ではないと存じます」
頼久が控えめに進言した。
「オレもそう思うぜ。
悪いやつは人目につきたくないだろ?
だったら一番ありそうなのは洛西の外れじゃねえか」

再びかたんと文箱が鳴った。
しかし吉平の身震いは止まっている。

「何者!」
泰明と晴明が文箱に向かって同時に呪符を構えた。
頼久の手が剣にかかる。

とたんにおびえたように文箱の音が止まった。

友雅は周囲を見回すが、もちろん何人の影も無い。
「晴明殿のお屋敷に見えない客人とはね。
………ん?……これは……」

一瞬、微かな黒方の香が漂った……かに思えた。

それは瞬きよりも短く、すぐに雨の匂いにかき消されたが
友雅は迷わなかった。

「攻撃は待ちたまえ!
永泉様だ!
今一瞬、黒方の香が流れたのだよ」

「永泉様がここに?」
「おい、いるなら返事しろよ、永泉!」

だが、文箱がまた僅かに音を立てたのみ。

部屋の隅から、泰明がゆらりと立ち上がった。

「姿が消え、声も届かぬのだな、永泉。
道摩に術をかけられたか」

晴明が一瞬息を呑み、聞き取れぬほどの声でつぶやいた。
「不見の衣か……あやつめ……」

泰明は虚空に向かって呼ばわった。
「永泉、そこにいるなら笛を吹け。
皆、笛の音に耳を澄ませろ」

「承知!」
「おう!」

皆は身じろぎもせず耳をこらした。
静まりかえった屋敷の中に雨の音が満ちていく。

そして雨音の向こうに………遠く……微かに……。

「……笛だ。聞こえるか」

皆は一斉にうなずいた。

「もっと吹け、永泉!
お前の笛の音は邪を祓う。
もう少しだ!」

「永泉様!」
「がんばれ、永泉!」
「永泉様……」

雨音に紛れ初めは幻聴とも思えた笛の音が、
淡い音となって滲み出てくる。
音が形になっていく。

晴明はつと、誰もいない場所に向き直った。
道摩の術の彼方にいる永泉を見つけたのだ。
そして居住まいを正し深々と一礼する。

「永泉様、さぞやお辛かったことでしょう。
今こそ、御身にかけられた忌まわしき呪を解きましょうぞ」

泰明は床に片膝を付くと、印を結んで構えた。
「お師匠、道摩の呪を破るなら私が永泉の周りに結界を張る」

「その身体でできるのか、泰明。
我が術の反動は大きい。
結界の内に向かっては柔らかく、外には剛く抑えねばならぬ難しい技じゃ。
それと承知の申し出か」

「問題ない」
「ならば見事に成してみせよ」

泰明は笛の音に向き直った。
「聞こえているな永泉、部屋の中央に立ち笛の音を絶やすな。
皆は庇まで退がっていろ」

晴明の両袖がばっと広がり、無数の呪符が宙に舞い上がる。
呪符は胡蝶のように飛び回り、やがて部屋の真ん中でくるくると回り始めた。

「永泉、その場を動くな」
床に触れた泰明の手から光が走り部屋の中央に五芒星が描かれる。
そこから光の壁が立ち上がり、飛び回る呪符を取り囲んだ。

「破っ!!!!」
晴明の気合い一閃、呪符が爆ぜる。

部屋の床がずん、と揺れ、同時に朧な人の影が結界の中に浮かび上がった。

「おお……」
見守る者たちから声が漏れる。

「まだだ、動くな永泉!
お師匠、合図をくれ。それに合わせて結界を解く」
「では行くぞ、今じゃ!」

晴明が踏み込むと同時に再び床が揺れ、光の壁は消えた。

その後には笛を手にした永泉が、がたがたと震えながら佇んでいる。

「み……皆さま……あの……私が見えていらっしゃいますか」

「もちろんだぜ!」
「永泉様! ご無事で何よりです」
「永泉様!」

だが駆け寄ろうとする皆にくるりと背を向けて、
永泉は友雅の書き付けを転がるように手に取った。
そして右大臣屋敷の一つを指し示す。

「ここです! 神子はきっとここに!
泰明殿、昨夜のあの鐘が聞こえるのは、この屋敷だけなのです!」





大広間に設えられた祭壇の前に座し、
帝は一人、粛々と斎式を執り行っている。
雨夜の寒さがしんしんと身に沁みるが、
厳冬に臨む儀式に比べればいかほどのものでもない。

だが……
もっと寒くなればよい――と帝は思う。
さすれば、今為すべきことにより心を向けられるだろう。
余人を持って代えがたきゆえに、
より一層、民を思い国を思って成さねばならぬ事どもなのだ。

心を鎮めてかからねばならぬ。

しかし………
この内裏の奥の間にあってなお、

―――不穏である。

警護に当たる武官の乾いた咳が、
間断なく続く雨音を縫って耳に届いた。

背後に視線を感じる。
だが、振り向こうとする己を抑え、
帝は儀式を続けた。

―――不穏である。

帝の双眸は燈台の炎を映してなお暗い。





泰明と頼久、イノリは、あかねを救出すべく、
夜雨をついて洛西へと向かった。

だが永泉と友雅は安倍屋敷に残っている。
他でもない、永泉は今、帝への翻心の疑いで追われているからだ。

「え? な、なぜ私が……?
主上に異心などと……なんということ……。
兄上……いえ主上は……私を疑っておられるのですか」

晴明と友雅から事の経緯を聞かされた永泉は
見るも哀れなほどに取り乱し、その場にがくりとくずおれた。

無理もない。
昨日は雨をついて御室の寺から洛中の泰明の家まで歩き、
その夜に道摩の襲撃を受けてさんざんに痛めつけられ、
さらに今朝気づいてみれば見知らぬ街にいたのだ。
だがそこで、道摩の居場所の手がかりを掴み、
そこから晴明屋敷のある一条戻橋まで、急いでやって来た。

その間の心労と疲労は、永泉が抱えるにあまりあるものだった。
そこに、自らが謀反の主として詮議の対象になっているという報せ。

「………ああ……私はこれから……どうしたらよいのでしょう」
「案じることはありません、永泉様。
永泉様を知る者は皆、怪しき書状など露ほども信じておりません。
もちろん、晴明殿も私もです」

「ありがとうございます……。
お二人のお心、とても心強く思います。
けれど、私がここにいては晴明殿にご迷惑がかかりましょう。
私が……還俗のお話をきっぱりと退けることができず
怖ろしくて逃げたばかりに……」

「おや、そのような話を持ちかけた御仁がいたのですね。
ならば責めを負うのはその方でしょう。
ご自分を責めてはなりません」

「いいえ、考えてみればこれは私の弱さが引き起こしたこと。
これ以上、主上の御心を悩ませたくありません。
私は……内裏に行こうと思います。
………あの……友雅殿、せめてご同道をお願いしたいのですが」

青ざめ、震えながら永泉は言った。
だが晴明がそれを押しとどめる。

「早まってはなりませぬぞ、永泉様。
全ては道摩めの邪な企み。
まずはこの晴明の考えを聞いてはいただけませぬか。
友雅殿も同じ考えでございますれば」

永泉はきょとんとして二人を交互に見比べた。
「あ……あの……お考えとは?」



次へ





[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17]  [18]  [19]  [20]  [21]  [22]  [23]  [25]  [26]

[小説・泰明へ] [小説トップへ]





あとがき

あかねちゃんは一人でも道摩に負けていません。
泰明さんも(まだ不安はあるけど)さっさと復活してがんばるのだよ〜!


2021.7.21筆