いまひとたびの 25



ゆるゆるとたゆたう靄

澱みの淵に滴る
幽かな水音

静寂
冷気


……闇の底に朽木

畏れの記憶





「よいか、我らが主のご命令だ。
曲者は見つけ次第処断せよ!」

洛西。雨の暮れ方。
武士の一団が、とある屋敷の門前に集まっている。

「主の不在をよいことに、ここに不埒者が棲み着いているそうだ」
「こともあろうに右大臣様のお屋敷ぞ。怖れを知らぬにもほどがある」

「よいか、躊躇うな! 情けも無用!
相手は手練れとのことだ。寸刻の遅れが命取りになると心得よ!」
「おう!!」
「まずは門を抜け! 破壊は咎めぬとの仰せじゃ!」

丸太が二度三度と門のかんぬきに叩きつけられた。
誰もが意気軒昂だ。

堀川第で彼らは出仕前の右大臣から直々に下命を受けたのだ。

洛西の屋敷に巣喰う曲者を平らげ、明朝までには朗報を届けよ、
格別の報償を約束するとの命令であった。

だが、戦う相手の正体は何も知らされていなかった。





「ぷくぅぅぅ……」
珍しく永泉がふくれている。

「この提案はお気に召さない、ということですか?」
「はい」
珍しく永泉は即答した。

「全ては永泉様をお守りするためです。どうか」
「晴明殿も友雅殿も、あの怖ろしさをご存じないから、
そのようなことを仰るのでしょう」
珍しく永泉はきっぱりと反論した。

追われる身となっている永泉をかくまう手段として
晴明と友雅が示した「提案」が、こともあろうに
――再び術によって姿を消すこと、だったからだ。

笛を握りしめ、ぎゅっと身を縮めている永泉の決意は固い。

ここは謝るしかない。

晴明と友雅は並んで深々と頭を垂れた。
「御心を軽んじるようなことを申しました。
お詫びいたします」

「え……あ……その……お顔をお上げください。
お二人が私のことを考えてくださったことには感謝いたします。
ただ……」

晴明はゆっくりとうなずいた。
「永泉様の感じた怖ろしさ、この晴明も存じ上げております。
不見(みえず)の衣は不可思議の力を持つ布にて、
若かりし頃、師匠の元にてその力を試した折には
己がこの世の者でなくなった心地がいたしました」

これには永泉ばかりではなく友雅も驚いた。
「不見の衣」とは何か。
しかもそれは晴明の修業時代に遡る因縁もあるようだ。

永泉の姿を隠した術を、今度は永泉をかくまうために使うとの晴明の話に、
陰陽道に通じていない友雅はよき案と考えて賛同した。
しかし晴明に含むところがあるならば、左近衛府少将として確かめなければならない。

「永泉様に施そうとした術がそれほどに特殊であるとは承知の外。
詳しくお聞かせ願いたい」
永泉もこくこくとうなずく。

「うむ……これは初めからお話しするべきでことであったやもしれませぬ。
ではしばし、この晴明の語りをお聞き願いたく……」

晴明は一礼すると、微かに光る布の切れ端を二人に示した。

「永泉様の術を解いた時、これを入手いたしました。
道摩めが永泉様にかけた術は、これ無くしては成せぬもの。
そしてこの布こそが、我が師匠の元から持ち去られて幾久しい、
不見の衣という秘物の断片に他なりませぬ」

師匠の家に伝わるもう一つの秘物、不濡(ぬれず)の衣は晴明が受け継いだが、
この不見の衣は晴明の修業時代に道摩が師匠の元から出奔した時から
行方知れずとなっていたという。

この不見の衣、来歴は定かでないが、
強い霊力ゆえ天狗の持ち物であったと言い伝えられてきた。
もとより凡愚の輩が手にすれば、その力に呑み込まれて異界をさまようのみ。
若き晴明が纏ってみることを許されたのは非凡な力を持つために他ならない。

そこで永泉は思い出した。
「倒れた私を怖ろしい目で見下ろしながら
道摩は自らの衣の袖を引き裂いたのです。
あれが不見の衣……だったのでしょうか」

「仰る通り、あやつめはこの不見の衣を自ら纏っていたのです」
晴明は苦々しい声で言った。

道摩は不見の衣を身につけていながら、永泉達の前に姿を見せていた。
それはつまり衣の力を制し、不見、可見を自在にしていたことになる。

師匠の家、賀茂家で修行していた頃には、
晴明にも道摩にも成し得なかった術だ。
不見の衣を持ち逃げした後に、
道摩は術を磨き、その力を存分に我が物としたのだろう。

では……と晴明は自らに問わねばならなかった。
不見の衣の端切れを手にした今、
稀代の陰陽師と言われる己は、すぐにその力を使うことができるのかと。

その答えは……

「晴明殿は、道摩に成せることはご自分でも……と仰るのですね。
だからこそのお申し出であったのだと、理解いたしました」
永泉が静かに言った。

「晴明殿、私はあなたを信じます。
ただ、一つだけお願いがあるのです」





雨をついて馬を飛ばし、泰明、頼久、イノリは洛西の右大臣屋敷に着いた。
暗い夕暮れ方、屋敷は暗鬱な影に沈もうとしている。

破られた門に異変を悟り、彼らが中に駆け入ってみると、
館は惨状を呈していた。

武士達がそこかしこで朱に染まって倒れている。
互いに切り結び、相討ちになったようだ。

「神子殿は……!?」
「あかねっ、どこだっ!!」

「神子っ!!!!」
泰明が屋敷の中に飛び込む。

頼久は手早く松明を用意して、倒れた武士の様子を確かめた。
「急所は外れているようだ。まだ息がある。」

「なら話はできるな!?
あかね……オレくらいの年の女の子を見なかったか?
おい、そこのお前はどうだ!?
そっちのお前は?
お前は?」

「イノリ、気持ちは分かるが落ち着け。
傷の痛みで話すのもままならないのだ。
中に見知った顔があるが、右大臣殿に仕える武士で、
かなりの使い手と聞き及んでいる」

「……知ってるやつもいるのか。
そうか……そうだな、まず手当だよな」

屋敷の奥から、あかねを呼ぶ泰明の叫び声が聞こえてくる。

二人は暗い影となった屋敷と、雨にうずくまる庭を見渡した。

人の気配がない。

武士達のあの惨状を見れば道摩がいたことは確かだ。
怪しげな術を使って相討ちを強い、その間に逃げおおせたのだろう。

そのような中、人質のあかねを置き去りにするとは考えられない。

となれば………。

「泰明殿!」
頼久が屋敷の中に呼びかけると瞬きほどの間に泰明が現れ、
かみつかんばかりの勢いで言った。
「見つけたのか、頼久!?」

「いや、そうではありません」
「違うのか。……では何だ」

「あの武士達はいつここに来たのでしょうか。
道摩の術で戦い始めたとしても、深傷を負っている者にまだ息があります」

焦れたようにイノリが割り込んだ。
「お前も分かってるんじゃねえのか、泰明。
この屋敷に人の気配ってもんがあるか?
道摩はあかねを連れてもう逃げていてさ、
まだそれほど遠くに行ってないんじゃねえかって頼久は言ってるんだ」

その時、蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。
庭の隅からのようだが、声の主は建物に遮られて見えない。

「お〜い、やすあき〜〜、わたしをたすけろぉ〜〜」



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あとがき

少しずつ書き進めて、ここまでこぎつけました。
どこまで書き尽くせるか分かりませんが、
推敲のぐるぐる周りに陥ってはいけないのだと自分に言い聞かせています。
がっかりした方には申しわけありませんが、私の筆力はこの程度。
とにかく完結させることが目標です。


2021.11.11筆