花の還る場所

10.月 影


「これはまた欲のないことですな、宗主殿は」
「大津の方々は、本当にそれだけでよいのですか」

ここは大内裏の中務省。
朝廷の職務を担当し、陰陽寮をも掌握する大きな機関だ。
その一室で、二人の貴族と大津の陰陽師が相対して話している。
先ほど泰明とすれ違った三人だ。

陰陽師の男は、胸を張った。
「もちろん我々は、宗主様の意向に否やのあろうはずがございません。
全て宗主様のお力は、人々のために使われるもの。
自分たちの益など、二の次、三の次でございます」

年長の方の貴族が、かすかに眉をひそめる。
「だが、そうは思っていない者もいるようですぞ」
「はて? それは何故のことでございましょうか」
「あの陰陽勝負、裏があるのではと探っている者がおる」
「ほう、そのような無礼者がいるとは…。して、それは何者?」
「左近衛府少将…帝の懐刀と呼ばれている男なのだが…」

陰陽師の頬がひくりと動いた。
「帝の…? なればその男、帝の命にて動いていると」
貴族は首をひねった。
「そこまでは分からぬ。
その男、懐刀などと呼ばれてはいるものの、
実は風雅な遊びに長けた優男。
あまり職務に熱心とも聞かぬゆえ、気まぐれやもしれぬ。
だが蔵人所の仲房殿のことを調べに現れたそうじゃ。
その後のことは噂にも上っておらぬが」

陰陽師は目を閉じ、口を引き結んだ。
仲房……いかに調べ回ったところで、何も分かりはしないはずだ。
だが、今は仲房などどうでもよい。
貴族の言葉がどこまで真か分からないのだから。

しかし、出仕の話をするためにここまで呼びつけておきながら、
今になって思い出したようにこのような話を出してくるとは…。
こちらがどう答えるかを見定めたいのだろう。
宗主様の仰っていた通りだ。
宮廷の人々はこのようにして、互いの軽重を量りあっているのか。

ここは、決然として清廉なる答えを与えねばならぬ。

「そのような人物がいるとは、宗主様も悲しまれましょう。
我らの術を疑われるは、我が宗主様を疑うに同じ。
されど、そのような疑いがあるならば、存分に調べるのが筋というもの。
我ら大津の出仕は、疑いが晴れるまで控えさせて頂きたく存じます」
頭を深々と下げて、そのまま場を退出しようとする。

「お待ち下さい!」
若い方の貴族が慌てて止めに入った。
「そこまでしなくてもよいでしょう。
左近衛府の少将が一人、動いているだけという、単なる噂なのですから」

陰陽師は顔を上げずに続ける。
「いいえ、疑いの目がある限り、
我らを御推挙下さった右大臣殿にもご迷惑が及ぶやもしれず」

年長の貴族は苦笑しながら、ゆっくりと言った。
「出仕を断る方が、右大臣殿にはご迷惑と思うが」
陰陽師の目が光る。その言葉を待っていたのだ。
しかし伏したまま、困惑した声を出す。
「そ…そのようなことがあるとは……我ら如何にすればよいのか…」
「ならば、顔を上げられよ。ほれ、少輔殿が内裏から戻られたようじゃ。
お待たせすることはなりませぬぞ」
「はい…かしこまってございます」

説得される形で、話は収まった。
内心安堵したことを気取られぬよう、陰陽師は神妙な面持ちで立ち上がる。
中務省少輔とは、執務の部屋で謁見する手筈となっているのだ。

前を行く若い貴族が、ほっとした様子で振り返って言った。
「大津の方々が出仕されれば、心強いというものです。
しかし本当に、よいのですか。
陰陽寮には他の職もあるのです。
せっかく力を持ちながら、もったいない気がするのですが」

陰陽師は鷹揚に微笑んでみせた。
心酔した者を操るは容易い。
「大津の登用に、安倍の反発は必至と存じます。
しかし争うは我が宗主様の意には非ず。
加持祈祷など、目立つことは致しますまい。
まずは、天の吉凶を占うことから始めさせて頂きたい」

その言葉に、若い貴族はほおっと感嘆の息をついた。
そこへさらなる言葉をかける。
「その後、妹君はいかがでしょうか」
貴族は嬉しそうに笑った。
「ああ、祈祷のおかげで、すっかりよくなりました」
「それは佳き事にて、宗主様もお喜びになることと存じます」
「しかし、いくら礼を差し上げても足りぬほどなのに、
こちらに求められたのは、送り迎えの牛車のみ。
どのようにして感謝の気持ちを表せばよいのやら」

陰陽師の眼が、闇の色になった。
その顔に古仏のような笑みを浮かべ、柔らかな声で答える。
「我らは何も…求めません。
ただ、京の人々のために、この力はあるのですから」





蔵の扉が、軋みながら開いた。

鷹通の父から仔細を聞いた友雅は、蔵に歩み入りながら、振り返って言った。
「悪いのだが、ここは泰明殿と私だけで会わせて頂きたい」

眉を曇らせて蔵の奥に眼をやると、鷹通の父は黙って頷き、母屋へ戻っていく。

後から入った泰明が扉を閉ざすと、蔵の中は真っ暗になった。
ただ一カ所、高い明かり取りから、一筋の淡い光が射している。
その光の中に、鷹通は壁を背に寄りかかっていた。
髪は解け、眼鏡も無い。
人前では、たとえ酒宴の席でさえ姿勢を崩したことのない鷹通だ。
そのような姿を見るのは、泰明は無論、友雅も初めてだった。

暗がりに立ったまま、友雅は声をかける。
「鷹通、私だ」

鷹通が顔を上げた。
こちらの姿が見えるよう、友雅と泰明は光の下に進み出る。

「っ!……友雅殿…泰明殿も……」
鷹通は息を呑み、そして切羽詰まった声で言う。
「友雅殿、剣はどうか外に…置いてきて下さい。
長剣だけでなく、帯剣も…全て」

泰明は、ついと前に出た。
壁際の鷹通を見下ろし、次いで壁に繋がれた縄を見た。
「鷹通、なぜ腕を縛めている」
鷹通はうつむく。
友雅は鷹通の前に膝を付いた。
「父君から、だいたいの話は伺ったのだよ。
君の口から、事の経緯を聞いてみたくてね」

鷹通は、真剣な眼で二人を見上げた。
「分かりました。ですがもう一度お願いします。
お話しする前に、剣を外し、私の縛めはこのままで…」

言い終わるより早く、泰明が鷹通の縄を解いた。
「やっ…泰明殿!」
友雅は長剣を抜き、鷹通と自分の中間に置く。
「友雅殿! 私の言ったことが分からないのですか!」

「友雅を叱った。今までと同じ鷹通だ」
「少しは元気そうで、安心したよ」
「お二人とも! これは冗談事ではないのですよ!」

友雅はふっと笑った。
「そう、もちろん冗談などではないよ。
このように異様な状態で、君がそれほどに懇願する理由とは、
いったい何なのだろうね。
心配は要らないよ。私はこれでも武官なのだからね。
君に剣を取られるなど、無様な真似はしない」

泰明が両の手の指を組んだ。
「鷹通、お前が動くより早く、私が止める。問題ない」

二人の言葉を聞き、青ざめていた鷹通の頬にかすかに色が戻った。

「では、やってみましょう。最初からお話ししますと…」

鷹通は、いつもの思慮深い口調で語り始めた。





月灯りの下を、牛車がごとり、ごとりと進んでいる。
洛中を離れたこの辺りともなれば、道は荒れ放題だ。
牛飼い童が平らな所を選んで牛を引いても、
屋形はぎつぎつと揺さぶられる。

物見を固く閉ざしたまま、宗主は苦痛に喘いでいた。

早い……
早すぎる……
時を費やしすぎたのか……
私の時は終わってしまうのか……
やっと時が動いたというのに……

帝はまだ折れぬ……

私はまだ、何も成してはいない……

晴咒……お前が壊れなかったなら……

宗主の透き通るように白い指先が形を失い、
どろどろと黒く流れ出す。

まだだ!……

思念を凝らし、気を集める。


ごっと何かにぶつかるように、牛車が止まった。

「宗主様」
前の御簾を上げて、牛車に付き従っていた白装束の陰陽師が声をかける。

宗主は腰をかがめ、踏み台を下りてきた。
「長い道でした。疲れたでしょう」
月の光の下、白い顔に笑みをたたえ、宗主は供人達をねぎらった。

しかしそのまま、邸に入ることなく歩き出す。

ぎこちなく右足を引きずる歩みに、皆はすぐに追いついた。

「宗主様!」
「何処へ行かれます」

口々に止める者達を、宗主は闇色の眼で見つめた。

「案じることはありません。しばし留守にするだけです。
不在の間のこと、頼みましたよ」

「ははあっ!」
皆が一斉に頭を垂れる。

宗主の漆黒の髪が、夜風にさら…となびいた。

「急な用事ができました。
人を…迎えに行かねばなりません……」



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―― 花の還る場所 ――
プロローグ  1.陰陽勝負・前編  2.迷子  3.陰陽勝負・後編
4.裁定  5.惑い  6.夢魔  7.宗主  8.治部少丞の不在
9.蠢くもの  11.妖変  12.右大臣  13.童子  14.露顕

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2009.02.06  筆