花の還る場所

14.露 顕


護摩壇の炎だけが照らす堂宇。
祈祷の声が低く続いている。

貧しい身なりの若い男が、思い詰めた顔で、床に横たわる娘を見ている。
娘もまた粗末な着物に身を包み、その顔は炎を映してなお蒼白だ。
だらりと投げ出された手足はぴくりとも動かない。

その時、祈祷の声が止んだ。
男が顔を上げると、白く整った顔が、笑みを刷いて自分を見ていることに気づく。
「そ…宗主様…?」
宗主は黙って娘の上方を指差した。

「ひっ…」
男は思わず小さな悲鳴を上げ、尻餅をつく。
もやもやとした赤い影が娘の口から立ち上り、何かの形を取ろうと渦巻いているのだ。

「恐れることはありません。下等な怨霊です」
柔らかな声で宗主は言う。
が、次の瞬間、美しい顔から笑みは消え、鋭い気が開いた掌から放たれた。

ぎゅ…ぃぃ…
奇妙な音を発して赤い影が縮こまる。
それはみるみる護摩壇の炎に吸い寄せられ、あっという間に燃え尽きた。

と、娘がぴくんと動き、目を開く。
自分を心配そうに見つめる男に気づくと、娘は微笑んだ。
「おおっ!」
男は喜びの声を上げ、娘を助け起こす。
「どこか痛むか? 苦しくないか?」
「ううん、大…丈夫。不思議…もう、何ともない」
娘は小さいながらも、しっかりした声で答えた。

男は宗主に向き直る。
「宗主様…、なんとお礼を申してよいやら…私は…」
娘もまぶしげに宗主を見上げた。
「助けていただいて…本当にありがとうございます」

宗主は優しく微笑んでいる。
「もう心配ありません。二人仲よく暮らすのですよ」

男は懐から小さな袋を取り出した。
「宗主様、どうかこれを…受け取って下さい。
これだけしてもらったんです。少ないですが、ぜひ…」
しかし宗主は静かにかぶりを振った。
「礼など必要ないのですよ。
あなた方の喜ぶ様を見るだけで、私は十分に報われているのですから」

男の目から涙が溢れた。
「私らみたいな者を、お坊様は救っちゃくれませんでした。
村のお社にいる神様だって、何度拝んでも…」
男は汚い袖で涙を拭った。
「宗主様…このご恩は忘れません」
男と娘は拝まんばかりに幾度も頭を下げ、帰って行った。


二人が堂宇を出ると同時に、大きな閂が独りでに動き、扉を閉ざす。

護摩壇の背後に、うずくまる人影が現れた。
長い白髪の老人と老女。
しかし彼らが顔を上げると、その姿はあどけない童子と童女に変じた。

「宗主様の慈悲は」
「京の民人にも」
「京の貴なる人々にも」
「あまねく注がれるもの」
「救われた皆の心」
「魂」
「やがて宗主様に」
「お応えすることでしょう」

宗主は足を引きずりながら、護摩壇の後ろに移動した。
童子と童女の足元を、闇色の眼で見下ろす。
そこには、宗主を訪ね来た童がこんこんと眠っている。

愛らしい声で童子と童女が問うた。
「この童」
「いかになさいます」
柔らかな声で宗主は答える。
「童は家に帰すが道理。
家に帰れば、より大きな供物を連れて戻ることだろう」
「優しき御技で」
「会わせてやりましたか」
白い顔に、冷たい笑みが浮かぶ。
「会いたがっていた…願いを叶えただけ」

童子と童女は小首を傾げた。
「宗主様には」
「気にかかることがおありですね」
宗主の笑みが消えた。
「我が呪詛が外れた」
童子と童女が、初めて小さく身じろぎをする。

「失せろ」
宗主の言葉に、二人はあどけない笑みを浮かべたまま姿を消した。


ぱちぱちとはぜる護摩の音だけが、堂宇を満たしている。
宗主は炎を見据え、次いで切れ長の眼を糸のように細くした。

――若者…藤原鷹通という名であった。二条に住まう貴族だ。
だが…それだけの者ではない。
何かの加護か……私の知らぬ強い力の、かすかな痕跡を感じた。
呪詛を魂魄に突き通すことができなかった。

宗主は白い手を炎にかざした。
呪詛が完全でなかったのは事実。
だが、あれを解けるのは、安倍晴明しかいないはずだ。

口元が歪む。
そういえば、他にも一人いた。晴咒と似た気を持つ、あの陰陽師。

我が正体…知られてしまうのか。
いや、安倍の喉元に斬り込んだからには、いずれ気づかれることは覚悟の上。
知られたとて、晴明には、私を止めることはできぬのだ。

白い手を、筋が浮き出すほどに固く握りしめると、
炎がじ…と音を立て、大きく揺らいで消える。
訪れた闇に宗主は長く息を吐き、手を開いた。

炎が戻り、宗主の顔に深い影を落とす。

――京の命数を告げる灯火は揺らぎ、消えかけていた。
すでにして、滅びは訪れているはずではなかったか。
なぜ鬼が滅び、なぜ人々は何食わぬ顔で日々を紡ぎ続けているのか。
いったい何が起きたのか。

扉に近づく者の気配に、宗主は護摩壇の前面にゆるゆると戻る。
外から声がかかった。
閂がかたりと外れ、右大臣邸から戻ってきた陰陽師が入ってくる。





鷹通の父から感謝の言葉で送られて、泰明と友雅は二条の屋敷を後にした。
四条の自邸に戻る友雅と別れた泰明は、足早に晴明邸へと急ぐ。

鷹通の記憶は、童子が老人へと変じたところから曖昧なものとなっていた。
老人達の後について、どこをどう歩いたのか、
どのような場所に案内されたのかも定かではない。
確からしいのは、鷹通が「宗主」に会ったということだけ。
瞬きもせず鷹通を見据えていた闇色の眼ばかりが、記憶に焼き付いているという。

――ならば、宗主は晴咒ではない。

泰明に似た晴咒を見たならば、鷹通は少なからぬ衝撃を受けたはず。
たとえ記憶が朧になったとしても、
驚くべき何かを見た、という感覚だけは残るものだ。

かすかな安堵…。
しかし、さらなる危惧もまた、泰明の中にある。

晴咒でないならば、誰か。
安倍家の陰陽師の中に、禁じられた術を使った者がいるのか。

きっと、お師匠ならば全て分かるはず。

あの術を知る弟子
そして……かつて弟子であった者の名を。

だが鷹通のことは、より大きな出来事のほんの一部に過ぎないのでは…とも思う。
鷹通のおかげで、一見全く関係のない二つのことが、結びついた。
消えた村人と、陰陽勝負の日に自刃した官人のことだ。

どちらにも現れるのが、「宗主」。
同一人物か否かすら、はっきりしないのだが…。

だが、異なる人物ではない、と泰明は感じている。
どちらにも、人ならぬ力の介在があるのだ。
鬼ではない。だが、見過ごすことはできない。

いつの間にか風が止み、西の空に夕焼け雲がたなびいている。
急ぐ泰明を夕映えが赤く染め、道には長い影が伸びる。
いつもならば、もう家に…神子の元に返っているべき頃だ。

泰明はさらに足を速めた。

――神子は鷹通のことを心配していた。
ありのままを話せば、ひどく心を痛めるに違いない。
どのように伝えればよいのだろうか。

呪詛の解き方より、こちらの方が、泰明には難しい。

あかねを思い、漠然とした不安を打ち消すように、
泰明は小さな笑みを浮かべた。
不安と焦燥が胸を灼こうと、あかねがいる…それだけで
あたたかなものが心を満たす。


だが、世を覆う翳りが、ひたひたと忍び寄っている。
それを打ち払うためになすべきこと……
泰明は迷いなく、一つの答えを選び取っていた。





「左大臣殿を?」
「はい。それが右大臣殿のお望み」
堂宇の中、胡床に座した宗主の前に、大津の陰陽師が跪いている。
宗主は笑いを含んだ声で答えた。
「よいでしょう。すぐにでも始めることといたします」

宗主を見上げて、大津の男は言った。
「今の左大臣邸には、安倍の陰陽師が足繁く通うことはない、と
右大臣殿自らが仰っておりました。
結界はあるようですが、邪魔が入らぬとなれば
宗主様のお力を持ってすれば、容易いことと存じます」

宗主は、かすかに眉をひそめた。
「安倍家と左大臣の結びつきは強いのです。
結界の強さ、決して見くびってはなりません。
しかし……陰陽師が土御門に足繁く通っていたことがあるのですか?
それほどの大事が、左大臣殿にあったとは知りませんでした」

大津の男は少し慌てた。
「も、申し訳ありません。余計なことを申しました。
右大臣殿は、…その…宮中の噂話をなさっただけなので…」
「よいのですよ。その話、私にも聞かせてはくれませんか。
噂話といえど右大臣殿のお言葉です。ありがたく拝聴いたしましょう」

「は…」
訝しく思いながらも、大津の男は右大臣の話の一部始終を伝えた。

安倍家の、あの陰陽師が、左大臣の世話している娘の元に通っていたこと。
その娘を、他にもそうそうたる顔ぶれの男たちが訪れていたこと。
結局左大臣は娘を、安倍家の陰陽師に与えたこと。

「その陰陽師の名、もう分かっていますね」
「はい、確か、安倍泰明と。
安倍晴明最後にして最強の弟子、と言われているそうです」
宗主は口元を歪めて笑った。
「最強の弟子…ですか。それで『明』の一文字を与えたのですね」
「あやつめ…今日も大内裏にて姿を見ましたが…」
泰明の発する気に圧倒されそうだった、とはさすがに言えない男であったが、
宗主の言葉に我に返り、その顔に優しい笑みが浮かんでいることにほっとする。

「左大臣邸は華やいでいたのですね。
それは、いつのことでしょう?」

男は記憶の断片をかき集めた。
「確か…昨年のことかと」
「昨年?」

冬のことではない。それは宗主自身がよく知っている。
――ならば、「あの」時期か。
宗主は重ねて尋ねた。
「昨年の…もしや、春から夏の頃ではないですか」
男は膝を打った。
「おお、そういえばそのようなことを仰っていました。
鬼が跳梁し京が大変な時に、法親王も左近衛府の少将まで、
昼日中から左大臣邸に通っては娘を連れ出し、街を回っていたと…」

宗主の後ろで炎が高く踊る。

「あなたに大切な命を与えます」
「はっ!!」
大津の男はかしこまった。

「娘の所に出入りしていた者達を全て、調べ上げるのです」

――法親王、左近衛府少将、安倍家「最強の弟子」……
ならば、二条の若い貴族がいてもおかしくはない。

しかし……
要はその者達ではない。

彼らが通い詰めたという娘……。
それこそが、鍵。

その娘が、我が思う通りの者であったなら、

よき贄と……なる。



第一部 了





―― 花の還る場所 ――
第一部
プロローグ  1.陰陽勝負・前編  2.迷子  3.陰陽勝負・後編
4.裁定  5.惑い  6.夢魔  7.宗主  8.治部少丞の不在
9.蠢くもの  10.月影  11.妖変  12.右大臣  13.童子
第二部
1.惜春

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第一部終了です。
思いのほか長くなったので、区切りを付けた方がよいかなあ、と思いまして。
エンド後とはいっても、相変わらず糖分低めですみません。

宗主様が暴走気味&頼久さんをまだ登場させていない等、
いろいろご不満もあるかと思いますが、
あまり間を開けずに続きをアップできるようにがんばりますので、
どうか第二部も、よろしくおつきあい下さいませ。



2009.03.25  筆