花の還る場所

6.夢 魔


几帳の向こうに柔らかな息づかいがある。
懐かしい香が漂い来る。
遠ざけた灯りが、ほの暗い影の輪郭を描く。

「お久しゅうございます、主上…」
「早う、こちらへ来て顔を見せよ」
「………」
「定子…なぜ返事をせぬ」
「恐れながら……私は、髪を下ろした身。
本来ならば、主上にまみえることすら許されぬはず」
「このまま去るというのか」
「はい…」
「だめだ。私はお前を忘れられぬ」
「どうか、お止め下さいませ。
言の葉に乗せてはならぬこともございましょう」

几帳の向こうで深々と頭を垂れ、
「主上の御代が末永くありますように…」
その声だけを残し、そのまま、退がろうとする気配。

「ならぬ! 行ってはならぬぞ!」
立ち上がり、几帳を退けた。
美しい顔が、驚きに満ちて見上げている。
頬に流れる幾筋もの涙が、灯火に光る。

「定子!」

我が声に目覚めた。

「主上、どうなさいましたか」
駆けつけた警護の者に 「大事ない」
平静な声で答える。

闇の中、目を開き耳を澄ませば、降りしきる雨音。
まだ夜は深い。
冷たい褥に、握りしめた己の掌が熱い。
滾り溢れ出る悲しみが、もっと熱い。

――あの夜の夢だ。

出家した定子が女院に呼ばれ参内した日……
私は定子を帰さず、一夜を語り明かし
そのまま内裏に留め置いたのだ。

一度出家した者を、再び内裏に迎え入れるなど…と、
私達に向けられた非難は、吹きすさぶ嵐よりも激しかった。
だが、それが何ほどのことであろうか……。

何があっても、お前を離しはしないと覚悟を決めていた。
断ち切れぬ想いならば、貫くのみと。
帝として許されぬ所行であっても。

だが定子よ……。
内裏に来ることがなければ、お前はもっと長らえたのか。
後見もなく、味方もないお前にとって、
内裏は針の筵であった…。


気がつけば、雨音が消えている。
周囲の闇がねっとりと濃くなった。

『…夢をみたか……』

黄泉の底から吹き来る風のような声が忍び入る。

身を起こそうとした。
だが、身体が動かない。

『かなしいものだな……己をさいなむ夢とは』

声を出そうとすると、喉元が苦しい。
「魔の者! なぜ繰り返し現れる」
かすれた声を振り絞る。

『理由を問うとは……笑止』
「何を求めるのだ」
『帝の求めるものを』
「魔の者に求めるものなどない」
『帝が希い祈るならば……人に委ねるに非ずとも…』
「!!……
お前は何者だ」
『……の声を聞く者。
また来よう……夢と共に』
音のない嗤い声を残し、妖しの気配は消えた。

雨音が満ち、身体が動くようになる。
身を起こし闇を見透かすが、何も見えない。

――帝が希い祈るならば……
人に委ねるに非ずとも…

放たれた言葉が、心の内に繰り返し谺する。

私の言葉だ。
先の陰陽勝負を…知っているのか。
目覚めた時の熱が嘘のように、冷たい汗が額を流れる。

定子葬送の日、初めてあの声は現れた。
今宵で幾度めであろうか。

断ちきれぬ想いをあざ笑うように、
謎めいた言の葉を弄していく。

僧侶の祈祷も陰陽師の祓いも、あの魔を消すことはできない。
夢の一つ一つが、私を蝕む。
だが、それで怯んではならぬ、弱い心を見せてはならぬ。
魔の者にも、朝廷の者達にも―――。





「病で?」
いつになく険しい友雅の表情に気圧されて、
下級官人の男はしどろもどろに答えた。
「仲房は……亡くなりました」
「それは、いつのことなのだね」
「それが、その…陰陽勝負の日に倒れて、そのまま目覚めることなく」
「主上の御裁定の前に、私が調べに来た時には元気そうだったが。
つまりは、その後のことか」
「はい。別当様直々のご指示の下に櫃をご用意申し上げましたのに、
中身がすり替わるとは如何なる事かと、皆で話し合っていたところ、急に…」
そこで少し口ごもる。
「急に、どうしたのだね」
「倒れまして…」

「………」
友雅は、無言で男を見据えた。
鋭い眼光に耐えきれず、男は救いを求めるように周囲を見回した。
だがここは近衛府の一室。部屋には男と友雅だけだ。

友雅の浮き名を知らぬ者はいない。帝の懐刀とは言われているものの、
それは詩歌管弦の遊びの時のことなのだろう…くらいに思っていたのだが…。

ぴしり、と鞭のような声が飛んだ。
「なぜ嘘を言う!」
「ひ……」
男は、がばとひれ伏した。
「も、申し訳ありません!
とんだ不祥事ゆえ、公にするわけにはいかず…」
「何があったんだね」
「は……はい…その、あれは突然のことでございました。
魂切れるような叫び声を上げて、仲房は暴れ出したのです」

「理由は」
「わ、分かりません。皆…ただ驚くばかりでございました。
しかも……」
男は身震いした。
「台の上には、櫃に入れるはずだった飾り太刀が…」
「それは私も見たよ。櫃を準備した部屋にあったものだね。
あの後君たちはずっとそこにいたのか」
「はい…そして、仲房はそれを手に掴み……」
男の顔が蒼白になった。震え声で続ける。
「止める間もありませんでした。
鞘を投げ捨てると、刃を自らに…」
男はうぐっと口を押さえた。
その時の光景が目に焼き付いて離れないのだろう。

「その事件を、もみ消したのだね」
「あ…あくまでも、ご内密に! お願いでございます!!」
男は必死で幾度も頭を床にこすりつけた。

あの勝負の一切を取り仕切っていたのは蔵人所。
今の別当は、左大臣殿が関白になって以来、右大臣殿が務めている。
あの方なら、足元での失態を隠すためなら、如何様にもするだろう。
下で働く者には災難なことだ。

ともあれ、今回のことは亡くなった仲房一人の企みとは考えられない。
だが、もう仲房から、その背後を追うことはできないのか…。

やれやれ……まじめに働くと疲れてしまうものだ。
次々と仕事が増えるのだから。

友雅は、懇願する男に答えることなく、部屋を出た。

だが、主上の仰せとあれば、止めるわけにもいくまい。
証拠のない状態で、右大臣殿を相手にするのは厄介だが……。

となれば、まずは探りを入れるか……。
こういうことの上手なのは…



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―― 花の還る場所 ――
プロローグ  1.陰陽勝負・前編  2.迷子  3.陰陽勝負・後編
4.裁定  5.惑い  7.宗主  8.治部少丞の不在
9.蠢くもの  10.月影  11.妖変  12.右大臣  13.童子  14.露顕

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「捜査は足だ。なあ、山さん」(←古すぎるよ)
というわけで、地道な聞き込みをする友雅さん。
勤勉過ぎです。大丈夫かなあ。

帝はいろいろ大変な様子。
でも折れないところがすてきなの。
ぜひ、応援して下さいませ。



2008.11.26  筆