花の還る場所

4. 裁 定


「主上…少しお痩せになったのでしょうか。
おいたわしいことです」

永泉は兄である帝の後ろ姿を見ながら心の中で思わず呟いていた。
背筋の伸びた威厳ある様子は変わらない。
だが、頬に小さな陰が落ちている。それは以前にはなかったものだ。

痩せたとか、いたわしいとか、口に出して言うのは以ての外と心得ている。
どのようにねじ曲げて捉えられるか想像もできない空恐ろしさが、
宮中にはつねに存在している。言質を取られた方が悪いのだ。
だから久々の再会も、儀礼通りの堅苦しい挨拶を交わすのみだった。
ここは内裏。帝の周囲には、大勢の目と耳がある。

陰陽師による勝負があるから――と、丁重だが有無を言わせぬ書状が届き、
断ることもならず、静かな御室の寺から、こうして参内してきた。
元より、兄に会うことはうれしい。しかも、昨冬以来のこととなれば。
あの時は中宮を亡くしたばかりで、帝は憔悴しきっていた。
しかし気丈にも永泉に向かい、心配はいらぬと笑って見せたのだった。

一目会い、元気な様子を見るだけで、永泉にとっては十分に喜ばしいことだ。
しかし永泉は、帝の心の内に、深い悲しみを見せまいとする激しい葛藤があることを、
感じ取ってしまった。
「まだお心は晴れていらっしゃらないのでしょう。
せめて、朝な夕なのお勤めで、亡き皇后様のためにお祈りしております…と
お伝えできたなら」

陰陽勝負はすでに始まっているが、奥に控えた永泉には、
詳しい経過は分からない。
それは永泉自身が望んだこと。
人目に立ちたくない、ということもあるが、
庭の方に、何やら息苦しいものが感じられてならないのだ。

勝負の行方は、泰明の姿がちらりと見えたことで、
もう決まったも同然、と思っている。
泰明に勝るどころか、比肩できる術者がいるはずもない、と
永泉は信じている。
泰明と共に京を巡ってから、まだ一年と経っていない。
時折顔を合わせるものの、なつかしい…と思う。
しかし気軽に挨拶に出るわけにも行かない。
勝負が終わってから、もし声をかけることができれば…
などと、永泉は考えていた。


ところが……
陰陽勝負は、思わぬ展開を見せたのだ。

最後の櫃に入れられた、胸を射られた子鹿。
死は、最大の穢れだ。

内裏に不浄が持ち込まれた、と大騒ぎの中、
帝は友雅を手招きし、何やら耳打ちした。
「かしこまりました」
友雅は配下の者と共に急ぎ足で出て行く。

「何と…恐ろしいことでしょうか」
永泉は震えるばかりだ。

そして永泉は信じられないことを眼にした。
泰明の術が弾かれたのだ。
すさまじい力同士がぶつかった余波を浴びて、
永泉は息をつくこともできない。

「法親王様!」
「大事ありませぬか」
自分を呼ぶ声に、やっと己を取り戻した時には、
すでにいくばくかの時が過ぎたようだった。

「子鹿が蘇ったぞ」
「すばらしい!天晴れじゃ!」
勝負の場は、歓声に包まれていた。

「子鹿が?どうしたのですか?」
永泉の問いに、側に控えた者が興奮しながら答えた。
「生き返ったのですよ!
あの大津の陰陽師が呼び寄せた赤い光に包まれたとたんに、
胸の矢が抜けて、子鹿は元気よく立ち上がったのです」
そして庭の方を指さしてみせる。
「ほら、今はあの通り、何事もなかったように…」

永泉がそちらをすかし見てみると、確かに子鹿がぴょんぴょんと
元気よく跳ね回っている。

「勝負あったな」
「大津の勝ちじゃ」
「次より、祈祷は大津に頼もうと思うぞ」
「おお、そうじゃな」
ざわめきの中から、そのような言葉が漏れ聞こえる。

進行役の貴族が恭しく帝の御前に進み出てきた。
最後の判定は、帝自身から下されるのだ。

その時、友雅が出て行った時と同様、急ぎ足で戻ってきた。
「どうであったか」
帝が短く問う。
友雅は低い声で何事かを答えた。
「やはりそうか」
帝の顔は、いつになく険しい。
「ですが、何者が手を下したのかまでは、突き止められませんでした」
友雅の報告に、帝は小さく頷いた。
「今はそれで十分。引き続き、調べよ」
「はい」

帝は庭に向き直った。
側近の合図で、ざわめきが一斉に収まる。

此度の陰陽勝負を取り仕切る右大臣が、帝の御簾の脇に誇らしげに控えた。
彼は、帝の御言葉を皆に伝える役目を担っている。
右大臣は、自らが帝であるかのように、周囲を睥睨し、
厳かに口を開いた。

曰く――

「安倍家の者よ、大津の者よ、双方の力はしかと見届けた。
そしてどちらも、見事であった。
特に大津の不可思議なる技は、皆の心を大いに動かしたようだ」

大津の者達は、ありがたや、と言わんばかりに平伏した。
安倍家の者達は頭を垂れてかしこまりながらも、不満げだ。

しかし帝の次の言葉に、右大臣は少なからず驚いた様子を見せた。
それでも、遅滞なく御言葉を取り次ぐのが彼の役目。
右大臣は続けた。

「だが余は、大津の使った呪法を認めることはできぬ」
声にならぬ声が、ざわざわとさざ波のように広がった。

御言葉は続く。
「生きとし生けるものの生死は、人の手に委ねられるものに非ず」

思ってもみない言葉だったのだろう。
大津の陰陽師達は、凍り付いたように動かない。

帝の次の言葉に、右大臣は弾かれたようにびくりと身体を動かした。
少なからず動揺した声で、その言葉を一同に向かい、繰り返す。

「だがそれだけではない。余が見過ごすことのできぬのは、
第三の櫃に入るべきは、別の物のはずであった、ということだ」

水面に大きな石を投じたかのように、万座に驚愕が走った。

「しかし、櫃に入れられたるは子鹿。これは如何なることか」
ここで帝はしばし、言葉を切った。
一同、固唾を呑んで次の言葉を待つ。

「その意味するところは明白である。
何者かが入れ替えたのだ」

右大臣の声は、心なしか上ずっている。
大津の者達は、先程より微動だにしない。

「櫃に細工を施された第三の勝負は、
無かったものとするが当然と、余は考える。
よって……」

右大臣は、大汗をかきながら声を振り絞った。

「この勝負、引き分けとする」


「ああ…お見事なご裁定でございます、兄上」
永泉は感極まって、御簾の内の帝を眩しく仰ぎ見た。

――あのような騒ぎの中でも心乱さず、
櫃の中に死骸が入れらるはずがない、とご判断されたのですね。
そしてすぐに友雅殿に、調べるようお命じになった。
このようにご立派な兄上のお姿を拝見することができて、
本当によかった、と思います。

しかし、永泉の心には一抹の不安が残っている。
この一件は、悪ふざけですむことではない。
また、ただ一人で為せることでもない。

この胸騒ぎが、杞憂でありますように……
舎人達に追われて逃げ回る子鹿を見やりながら、
永泉は手にした数珠をきつく握りしめていた。




「……というわけにございます」

安倍家に戻った泰明達は、すぐに晴明の元へと報告に参じた。
晴明は黙然として、話を聞く。

事の経緯を語り終えると、兄弟子達は口々に訴えた。
「今日の勝負、何から何まで解せぬことばかりでした」
「畏れ多くも帝の御前で、あのような不正がまかり通るとは」
「大津と内通する者が内裏にいたこと、信じてもらえるのでしょうか」
「とにもかくにもお師匠様のご同席が許されぬとは、
宮中のご身分からしても失礼の極み」
「私は、あの勝負、安倍家を貶めるための場の如く感じました」
「大津とやらの男達には、たいした力も感じられなかったのに、
引き分けとは残念でなりません」
「櫃の中を事前に知っていたのですから、
全てはあやつらの仕業と考えるのが道理」
「そうです、そうに違いありません!」

いきり立つ弟子達に、晴明は静かに答えた。
「お前達の話は、しかと聞いた。
然るべき者に伝え、近衛府の調査に役立ててもらうことにしようぞ」
その言葉に、兄弟子達は安堵の声を上げる。
「おお!」
「お師匠様の言葉なれば、きっと耳を傾けてももらえましょう」
「ぜひとも、よろしくお願いいたします」
「このままでは、安倍家が軽んじられぬとも限りません」

そして
「皆の者、ご苦労であった」
晴明のねぎらいの言葉を合図に、皆は退出していく。
だが泰明だけは、その場に座したまま。

「泰明、行くぞ」
兄弟子達が促すが、泰明は聞こえていないも同然の様子。

「泰明、何か言いたそうじゃな」
「そうだ、お師匠」
「では、聞こうか」

「ちっ、何様だと思ってるんだ」
「いつまでもお邪魔するのではないぞ!!」
兄弟子達は、子供相手のような捨て台詞を残して行ってしまった。

その足音が消えたと同時に、
「大津の宗主とは、何者なのか、お師匠」
前置きもなく、泰明は切り出す。
「此度の勝負、大津の側からは宗主が出ぬから、
お師匠も出るな、と言われていたのだろう?」
「その通りじゃ。内裏からの命であった」

晴明はごく短い嘆息の後に続けた。
「そも大津とは、大津大浦を祖とする古き陰陽師の家柄じゃ。
この京が都となる以前から、すでに朝廷に重んじられていた。
だが時が移るにつれその勢いは衰え、そのような陰陽の一派が
あったことすら、忘れられていったのじゃ」
「それがなぜ、今になって出てきたのだ」
「分からぬ。が、若き宗主が稀なる力を持っている…という噂を
耳にしたことはある。それを以て、宮中に入り込もうとしている…とも」
「そうか……」

晴明は珍しく言い淀む泰明に鋭い眼を向けた。
「泰明、今度はお前が答えよ。
兄弟子達の前では敢えて口をつぐんだのであろう」
「そうだ、お師匠。これは徒に広まってよい話ではない、と考えた」
「赤い光球のことじゃな」

泰明は頷く。
「あの子鹿は、生きていた。
縛され、気の流れを止められて動けなかっただけだ。
さらに、まるで矢が刺さっているかのように細工されていた」
「生気を封じ込めるとは、難しい術を使ったものじゃ」

「それにも関わらず、子鹿は皆の注目を集めるためだけのものだった。
一点に集中していると、別の事が起きた時に判断が遅れるからだ」
「つまり赤い光球には、子鹿を蘇らせることとは別の意図が
あったということか?」

「その通りだ、お師匠。あの光球は空の高き所に現れた。
比べる物がない時に、物の大きさを正しく把握することは難しい。
遙か上空にある物であれば、なおさらだ」

晴明の眼が、かっと見開かれた。
泰明の次の言葉が、分かったのだ。
そして晴明の予想通りの言葉を、泰明は語った。
「あの光球は、途方もなく大きなものだった」

「お前の術とぶつかり合うことで、あれは威力を弱めたのじゃな」
「いや、直前で弾かれた。だから私の術の力ではない…と思う。
だがその時……」
泰明は一瞬躊躇い、その名を口にした。
「…晴咒……とよく似た気が、面白がっているのを感じた……。
面白がって、その力を弱めたのも、分かった」

晴明は息を呑み、瞑目した。
長い沈黙の後、低く問う。

「赤い光球は、どれくらいの大きさ…だったのじゃ」

泰明は答えた。
「内裏の庭を覆い尽くすほど」



次へ





―― 花の還る場所 ――
プロローグ  1.陰陽勝負・前編  2.迷子  3.陰陽勝負・後編
 5.惑い  6.夢魔  7.宗主  8.治部少丞の不在
9.蠢くもの  10.月影  11.妖変  12.右大臣  13.童子  14.露顕

[花の還る場所・目次へ]   [小説トップへ]






2008.11.7  筆