「そもそもの始まりは、桂の荘園での揉め事でした。
管理を任せていた家司から、報せが入ったのです。
田畑の耕作を怠ける者が次々に現れ、中には姿を消してしまう者もあるとか」
鷹通は姿勢を改め、きちんと端座して泰明と友雅に向かい合っている。
落ち着いた口調、礼儀正しい言葉遣いはいつもの鷹通だ。
どこにも変わったところはない。
だが、鷹通と泰明、友雅の間には、まるで両者を分かつかのように、
友雅の剣が抜き身のままに置かれている。
鷹通はその剣から眼をそらしたまま、話を続けた。
――― 荘園を出奔する者が一人ならず出たという報告は、
捨ておける類のものではない。
風邪気味で伏せっていた父に代わり、治部省の勤めを休んで鷹通は桂に向かった。
そこで見た様子は、想像以上のものだった。
種や苗の植え付けで忙しいはずのこの時期に、全く人のいない田畑があるのだ。
手入れをされないまま、そこには雑草ばかりが生い茂っている。
その土地を通る水路は半分土に埋まって、水が下の方の田畑に流れていかない。
水がなければ、耕作はできない。
このままでは、鬼が四神を奪い、京に日照りをもたらした時と同じ事が起こる。
鷹通は荒れ果てた畑に足を踏み入れ、ひび割れた土を手に取った。
それは形を保つこともできず、ぱらぱらと手からこぼれ落ちていく。
最初のいさかいが、水を巡るものだったことは、
管理に当たっている家司の説明を待つまでもなく、
容易に想像できた。
しかし耕作を放棄した者は、近隣の者達に囲まれ、怒りを向けられても何も答えず、
ただぼんやりと微笑んだまま、日がな一日何もせず家にこもったきり。
そしてある日、ふらりと出かけて戻ってこなくなるのだ。
それが一人や二人の内は、物の怪にでも取り憑かれたか、と
誹り半分に囁かれたものだったが、立て続けに同じ事が起こるとなれば、
さすがに放っておくことはできない。
真面目に働いている者達の間にも動揺が広がっている。
家にこもった者を引きずり出して、厳しい見せしめを…と
さかんに言い立てる家司を、鷹通は押しとどめた。
「まずは、理由を聞いてみなければ」と。
「話の通じる者達ではありません」という家司の言葉を背に、
鷹通が村に足を踏み入れると、そこは異様な雰囲気に支配されていた。
時折見回り来る鷹通のことは、皆が知っている。
荘園領主の息子という身分であるのに、
困り事があれば親身になって相談に乗ってくれ、
争い事には公平な判断を下す鷹通は、
村人から全幅の信頼を寄せられているといってもいい。
田畑で仕事に精を出す村人が、鷹通の姿を見つけ駆け寄ってきた。
そのうちの一人が、思い切って口を開く。
「やっと来て下さいましたか。わしら…どうしていいか…」
おろおろしながら次の言葉を探しあぐねているの男の肩に、鷹通は手を置いた。
「落ち着いて下さい。そのために私は来たのです」
男はやっと、小さく息をついた。
「ああ…そうです。藤原様なら、きっとわしらを助けて下さる…」
「田畑はかなり酷い様子ですね。しかし、原因が分かりません。
家にこもったきりの人に、これから話を聞きに行くのですが、
あなたには何か心当たりがありますか?」
男はふいっと横を向き、家司と同じことを言った。
「あんなやつと話したって、何も」
同意の声が周囲から上がる。
「どうして、そのように決めつけるんです!」
鷹通の大きな声に、男はひっと身をすくめた。
そして、口惜しそうに付け加えた。
「…人のいいやつだったんです。この間までは。
藤原様になら、何か答えるかもしれません」
それだけ言うと男は深々と頭を下げ、他の村人も畑仕事に戻っていった。
鷹通が訪れたのは、竹藪を背にした粗末な小屋。
付き従っていた武士が先に入り、中を改めてから鷹通を招じ入れた。
土間に筵を敷いただけの小屋は、何かを隠すこともできないほど狭い。
その小屋の真ん中に、この屋の主が膝を抱え、
膝小僧に頭を埋めるようにして座っている。
「藤原様ぞ! 頭を上げよ!」
武士が大声で呼ぶと、男はゆっくりと顔を上げた。
その顔には、たゆとうような笑みがある。
鷹通は男の前に膝を付き、静かに話しかけた。
「藤原鷹通です。私が分かりますか?
この村の異変を調べているのです。ぜひ協力して頂きた…」
鷹通は言葉を切った。男の視界に入っているはずなのに、その目は鷹通を見ていない。
まるで心が肉体から切り離されてしまったかのようだ。
話が通じない…とは、このことだったのかと悟る。
しかし、何か糸口があるかもしれない。
鷹通は辛抱強く言葉をかけ続けた。
「この村の人が、何人かいなくなっています。
あなたも、どこかに行きたいと思いますか?」
と、男がぼんやりとした声で答えた。
「行く…もう一度…」
「もう一度? ではそこには以前、行ったことがあるのですね」
男は口をつぐんだ。
「そこへもう一度、行きたいのですね」
男は茫洋とした顔のままうなずいた。
そういえば…
その時、鷹通は気付いた。
昨年村に来た時、この男はお腹の大きなおかみさんと一緒ではなかったか。
だが、小屋には女子供の気配はなく、すえたような男所帯の臭いしかない。
何があったかは、察しがつく。珍しいことではないのだ。
それでも、鷹通は心が痛んだ。恰幅のいい元気なおかみさんだったのに…。
鷹通は詫びた。事の異様さに気を取られ、相手への当然の思いやりさえ忘れるとは。
「申し訳ありません。先に…事情を尋ねるべきでした。
さぞ、お寂しいことと思いますが、どうか…」
と、男が笑った。
「ややこは…」
しかし言葉の続きは、ぶつぶつとした呟きの中に消える。
その後は何度話しかけても、身体を揺すっても、男はもう何も答えなかった。
小さな川に沿った山間の村に、夕暮れが訪れた。
村はずれの廃屋のような小屋の前で、
痩せた女が暮れゆく光に紙をかざし、
そこに書かれた言葉に繰り返し目を通している。
「あんた、字が読めたのかい?」
通りかかった女が、驚いたように声をかけた。
「少し…ほんの少しだけです」
痩せた女は首を振って答える。
やがて空が薄墨色になり、文字が追えなくなると、女は丁寧に文を閉じた。
家に入る女の顔には、静かな喜びの表情がある。
あの子も、貴重な紙を使わせてもらえるようになったのね。
やっと術も使えるようになったから、と書いてあるけれど…
女は何年も前の別れを思った。
――『顔を上げよ。子供は預かる』
あの日から、ずいぶん時間がかかったものだと思う。
だが、間違いなくあの子は成長している。
辛いこともあっただろうに、心優しく…。
―― ぼくが一人前になったら、
お母さんも京に来て下さい。
ありがとう……。
その心だけで、私は幸福です。
炉に小さな火を熾し、あたたかな炎を見つめる。
だが次の瞬間、その炎は黒く揺らめき、消えた。
思わず懐を抑え、ぎこちない動きで振り返ると、
手を伸ばせば届く距離に、男が一人、座している。
女と見まごうばかりの白く美しい顔に、切れ長の瞳。
その瞳は、白い顔にくっきりと描いた闇の裂け目のようだ。
声もない女に、男は微笑みを浮かべた。
「久々の訪いに、挨拶も無しか…?」
そして形のよい唇が、冷たく歪む。
「お前は老いた。
もはや彼の
女は喘ぎながらも、精一杯かすれた声を出した。
「歳月と共に全てが変わる…それが人の世の理ではありませぬか…」
闇色の眼が細くなった。
「無駄口はよい」
女の声が途切れた。
聞こえるのは、女の喉を通るひゅうひゅうという息の音だけ。
「私はお前に会いに来たのではない」
男は立ち上がった。
女を見下ろし、その懐の文に気付く。
男が手を差し伸べると、文は糸に引かれるように、その手の中に収まった。
女が文を取り返そうと男にむしゃぶりつくと、男は無造作に腕を横に振る。
女の細い身体が宙を飛び、壁に叩きつけられた。
それを見ようともせず、男は文を開いた。
蛍火のような光が中空に現れ、文面を照らす。
「お前は……」
男は文を閉じると、女に闇色の眼を向けた。
そこに表情を読むことはできない。
「あの…晴明に……」
男は、うつぶせに倒れたままの女に足をかけ、ごろりと返した。
仰向けになった女の眼に、涙が一筋流れる。
「浅茅を……私の子を…預けたというのか」
―― 花の還る場所 ――
プロローグ
1.陰陽勝負・前編
2.迷子
3.陰陽勝負・後編
4.裁定
5.惑い
6.夢魔
7.宗主
8.治部少丞の不在
9.蠢くもの
10.月影
12.右大臣
13.童子
14.露顕
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2009.02.14 筆