大内裏の中務省を辞した大津の陰陽師は、
迎えの牛車に乗り
右大臣の堀川第へと向かった。
陰陽寮への出仕が決まったのは、右大臣の口利きによるものだが、
もちろんそれは以前よりの繋がりがあればこそ。
大津の男が堀川を訪れるのは、初めてのことではなかった。
折しも夕暮れ時、庭に焚かれた篝火が、周囲をほのかに照らしている。
男は釣殿へと案内され、そこへ女房がしずしずと酒器を運んできた。
膳の用意が調えられたところで、右大臣が供を引き連れて現れる。
「堅苦しい挨拶は無しじゃ。顔を上げてよい」
伏して迎えた男に、右大臣は鷹揚に声をかける。
どこからともなく管弦の音が流れてきた。
「楽人の姿が見えぬというのも、一興ではないか?」
そう言って、杯になみなみと注がれた酒を一気にあおる。
「さすが右大臣様でございます」
管弦にはまるで興味のない陰陽師は、恐れ入った体を装った。
もっと近くで演奏させれば、楽の音に声が紛れてよいものを…と思う。
よからぬ依頼で呼ばれたことは薄々気づいているのだ。
これまでにも幾度か役目を果たし、その度に信頼を勝ち得てきたのだから。
さて、今日は何をせよと言うのだろう。
「あれ以来、大津の邸には貴族達が引きも切らず訪れているそうじゃな」
「はい。右大臣様に機会を与えて頂いたおかげでございます」
「帝があのような御裁定を下されるとは、惜しいことをしたものよ。
そもそも、安倍があそこまで食い下がるとはのう。
安倍に凄腕の者がいることは聞き及んでいたが、
あの場に出てくるとは思わなんだ」
「あの術は、見事にございました」
右大臣は鼻を鳴らした。
「敵を褒めるとは、気が知れぬ」
「申し訳ありません。しかし右大臣様のお力により
陰陽寮に出仕の決まった今となれば、安倍を敵と言うのも…」
陰陽師はしれっとした顔で言ってのけた。
右大臣は腹を揺すって笑い出す。
「目配りの効いた物言いよ。面白い」
しかし、その目は笑っていない。
「安倍は左大臣にすり寄っているのじゃ。不愉快ぞ」
吐き捨てるように言ってから周囲を見渡し、右大臣は言った。
「さて内々に、大津の宗主殿にお伝え願いたき儀があるのだが…」
言葉の意を察して、その場の者達は潮が引くように下がっていく。
大津の陰陽師は、内心ほくそ笑んだ。
宗主は陰陽勝負の後、あの安倍の陰陽師に非常な興味を示していた。
秘密裏に調べよとの命も下っている。
右大臣から口から話題が出るとは、上々だ。
「お言葉ではございますが…」
おそるおそる、という口調で男は言った。
「安倍家は帝にお仕えしているはずでは…」
右大臣は不興気に杯をあおった。
「ふん、左大臣は八方に敵がおる。
安倍晴明を味方につけておけば、この上もなく心強いというものよ。
安倍家もまた、一門興隆のためには左大臣の権勢に頼るのが近道」
「はあ、そう言われてみますと確かに…」
右大臣はにたりと笑った。
「左大臣殿は卒のない方でな。あの陰陽師に、館の娘を与えたそうじゃ。
安倍晴明の息子ではなく、高弟にというところが、食えぬ」
男は驚いた。
「左大臣殿が、陰陽師に御子を…?!」
右大臣は失笑する。
「まさか。どこぞから館に預けられた姫と聞くが、氏素性の知れない娘じゃ。
だが、ただの娘ではないのだぞ」
これではただの噂話だ。大津の男は嫌気がさしてきた。
しかし、最後まで聞かぬことには収まりそうもない。
熱心に耳を傾ける振りをする。
「この娘の元には、法親王様までが足繁く通っていたのじゃぞ」
「な…何と…それは…」
「かなりの評判になったものじゃ。
もちろん、あの安倍の陰陽師も通っておったし、さらには、帝の側近までも、
昼日中から勤めを休んで通い詰めたというのだから驚きじゃ。
そやつは今業平と評判の帝の懐刀でな。
内裏の女房達をどれほどやきもきさせたことか」
そしてくっくっくと、喉の奥で笑う。
話を聞き流していた男は、はっとして気を取り直した。
「帝の懐刀」……同じ言葉を、中務省でも聞いたのだ。
「もしやそのお方は、左近衛府少将殿では?」
右大臣は目を丸くした。
「よく知っておるの。それも術の内か」
「いえ、大内裏でも、ご評判を耳に致しましたゆえ」
「やれやれ、さすがよのう」
右大臣は再び、くっくっくと、喉の奥で笑った。
「しかし、そのように優れた殿御を虜にするとは、
さぞや美しき娘なのでございましょうな」
右大臣の笑いが止まった。
「それが、ごく普通の娘らしい。つまらぬ話だ。だが……」
右大臣は、突然きりりとして言った。
「鬼が京を滅ぼさんとしている大事の時に、
勤めを休み、女の元に通うとは、如何なることか。
しかもあろうことか、帝はそれをお咎めにならなかったのじゃ」
鬼が跳梁していた…というと、ほぼ一年前のことか。
「法親王様も、法親王様じゃ。
わしが東宮に推挙したことを恩に感じることもなく、
勝手に出家したあげく左大臣にすり寄るとは」
法親王……内裏での勝負を帝と共に見ていたはず。
あの安倍の陰陽師とは、左大臣邸で顔を合わせたことがあるやもしれぬ。
そして、左近衛府少将とも。
思わぬところに、人の繋がりがあるものだ。
「ともあれ、そのような娘を、安倍晴明の弟子に与えたのじゃ。
左大臣と晴明との繋がり無しには考えられぬであろう」
いつの間にやら、話が元に戻ってきた。
つまり、言いたいことはこれか…。
陰陽師は理解した。
恭しく両手をつき、右大臣の最も欲している言葉を述べる。
「我ら大津が、右大臣様の手足となりましょう」
右大臣は破顔一笑した。
「頼むぞ。お前達の力は高く買っておるのじゃ。
市井の怪しげな祈祷師とは格が違うのだからな」
――「市井の祈祷師」を引き合いに出すのなら、その本意は一つ。
「まじないの相手は」
低く問う。
「土御門の主じゃ」
低く返す。
「御意」
「安倍家が守っておるぞ」
「承知の上」
高く、もっと高く!!
式神が羽ばたくにつれ、京の街が眼下に広がっていく。
安倍の屋敷、一条の橋、大内裏が視野に入り、神泉苑が見えてきた。
あれは船岡山だろうか…。あっ、あれは鴨の川だ!
街の建物も、行き交う人も馬も、どんどん小さくなっていく。
すごいなあ…広いんだなあ…京の街って……
「浅茅、もういい。式神を戻せ」
兄弟子の声に、浅茅は我に返った。
しかし、以前のような失敗はしない。
式神の視界を保ったまま、降下の態勢に入る。
ふわりと風に乗ると、翼を広げて大きな円を描きながら、
ゆっくりと下りてくる。
さっきより遠くまで見渡せる。
北山、清水のお寺、東の市も見える。
そして、あっちは……
ぐぅおん!
浅茅の視界の中に、霧に覆われた一画がある。
あれ? なぜ、あっちの方だけ見えないんだろう。
ぐぅおん!
近づこうとすると、何かに押し返された。
全身に、氷よりも冷たい気が広がる。
「どうした、浅茅!!」
兄弟子の声が遠い。
だめだ、このまま落ちたら式神さんが…!
浅茅は夢中で印を結んだ。
真っ直ぐに落下していた鳥が姿を消し、札へと変じる。
「大丈夫か!」
ばんばんと背中を叩かれて、浅茅は気がついた。
「あ…あれ…? あ、そうだ、式神さんは…」
「ここだ」
兄弟子は、ひらひらと落ちてきた札を空中で受け取った。
「あっ! ぼくまた失敗しちゃったんですか…」
「そうだ。また失敗だ」
がっくりと気落ちした浅茅の背中を、兄弟子は今度は優しくぽん、と叩いた。
「あそこまで高く上がれれば大したものだ。
何より、式神を大切にしているのがいい」
「はいっ! ありがとうございます!!」
「褒められると、すぐ立ち直るんだな」
「す…すみません…」
兄弟子は、思案しながら頭をぽりぽりと掻いた。
「それよりお前、身体の調子が悪いんじゃないか?
この前も街中で倒れただろう?」
浅茅は小さくなった。
「……すみません」
「謝る事じゃないぞ。
身体を流れる気を万全に保つことも、陰陽師には必要だ。
自分が倒れたら、祈祷などできないだろう?」
その通りだ。でも、普段は何ともないのに…。
「はい…」
浅茅は彼の鳴くような声で答えた。
「お前、あの泰明殿とまともに話ができるんだろう。
一度、相談してみたらどうだ?」
そうか! 泰明さんなら!
「そうします!」
浅茅は嬉しそうに返事をした。
変わったヤツ…
兄弟子は、進んで泰明と話したがる浅茅に首をひねった。
自分は泰明と話すなど、恐ろしくてできない。
命が危ないとでも言うなら、別の話だが……。
鷹通の話は、淡々と続いている。
「私はその後、村の家を一軒ずつ回って話を聞きました」
「君が一軒ずつと言うからには、本当にそうしたのだろうね。
考えただけでぞっとするよ」
「鷹通は当然のことをしただけだ」
「何だか私は、分が悪いようだね」
「確かに大変でしたが、それなりの成果はありました。
行方不明の人達の多くに、共通することがあったのです。
ここ数年の内に親しい人を亡くした、という」
「家に閉じこもっているという男も、そうだったな」
「はい。そこで私は、一つの策を立てました」
「まさか、その男を見張ることにした…とでも言うのかな」
「その通りです」
「見張り役は誰かに頼んだのかい?」
「いいえ、私が自分で」
「その男は鷹通の予想通り、村を抜け出したのだな」
「ええ、その日の夜更けに、音もなく忍び出て行きました」
「そして、鷹通自ら、その後を尾けた…というわけだね。
だが少々無謀だったのではないかな。これは武官や武士向きの仕事だ」
鷹通は、眼を上げた。
「結果的には、その通りです。
今思えば、泰明殿のお力をお借りしていれば…と。
けれど、あの時は目の前の男を追うのに手一杯でした。
次の機会があるという確証はありません。
この機を逃したなら、この人も消えてしまう。
それに、うまくいけば、いなくなった人達の行方が分かるかもしれないのです。
護衛の武士と、家司が供についていましたし、
相手は武器も持たない善良な農民ですから、
万一の時も、大丈夫だと考えたのです」
「だが、そうではなかったのだね」
「はい。私の考えは甘かった。男の様子で気づくべきでした」
鷹通は拳を握りしめると、大きく息を吸って再び口を開いた。
「男の後を追う内に、霧が出てきました。
そして、私は一人だけ、はぐれてしまったのです。
けれど私は心配しませんでした。
霧はいつか晴れるもの。それに桂の里には幾度も来ているのですから。
男は、見えない糸に引かれるように、夜道をずんずん進んでいきます。
こちらも急がないと、あっという間に見失ってしまうかもしれない。
そう思って、私も早足で進む内……」
鷹通は言葉を切り、友雅と泰明を交互に見た。
「ここから先の話は…信じて頂けないかもしれません」
「気にしなくていいんだよ。ありのままを話してごらん」
「案ずるな。鷹通は先ほど、私の力を借りておけばよかったと言った。
不可思議なことが起きたのでなければ、そのようには言うまい。臆せず話せ」
鷹通は、記憶を探るように眼を閉じた。
「桂の里に、あのような場所があるとは知りませんでした。
私はいつの間にか、どこまでも広がる水面の前に立っていたのです。
夜で…霧の中だというのに、そこは明るく…水は五彩に照り輝きながら、
どこまでも澄み切って……」
鷹通は両の手の指を組み合わせ、ぎゅっと握りしめた。
「あれはまるで……異界…のようでした……」
―― 花の還る場所 ――
プロローグ
1.陰陽勝負・前編
2.迷子
3.陰陽勝負・後編
4.裁定
5.惑い
6.夢魔
7.宗主
8.治部少丞の不在
9.蠢くもの
10.月影
11.妖変
13.童子
14.露顕
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2009.02.26 筆