花の還る場所  第二部

2.草 庵


―― 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき ――


篠突く雨が、壊れかけた小屋の屋根を叩いている。
屋根と言わず壁と言わず、雨は破れ目から容赦なく入り込む。

乾いた所を探し、晴源はその小屋の中で身を縮めていた。
式神を使うことも、持てる術を為すこともなく、
このままでいる方がなぜか心地よい。
嵯峨野の奥、竹をしならせて降る雨音に心静かに耳を傾ける。

あの人と更衣の住む小さな庵をやっと見つけてからもう幾日かが経つ。
突然の訪いに驚く二人に向かい、
「不埒な真似など絶対にしません!
庵にも上がりませんので、何とぞ!」
冷や汗を流しながら平身低頭し、
今はこうして狭い庭の隅に建つ小屋に住まわせてもらっている。

晴れても曇っても、このような雨の日も、ここは淋しい場所だ。
庵には、身の回りの世話をする雑仕女もいなければ、下人もいない。
獣からも無頼の者からも、守る者はいない。
内裏に在った更衣と女房が自ら、僅かばかりの畑を耕し、
山に入っては野草を摘み、時折、街に下りては薬院の手伝いをする暮らしだ。

更衣の座を追われた中の君は、まだあどけなさの残る年頃で、
ひどく気落ちしている様子が傍目にも分かる。
権力の中心から外れているとはいえ、藤原家に生まれた身にとっては
何もかもが辛いことばかりなのだろう。
気弱になるのも仕方がない。

安倍の陰陽師殿がいて下さるならば心強い…という中の君の言葉で、
ここにいられることとなった。

何がしたいのかも分からず闇雲にここまで来たが、
やっと、できることが見つかった。

晴源は庵の周囲に結界を巡らし、黙々と力仕事を手伝い、
二人が山に入る時、街に出る時には、
人目に立たぬようにしながら護衛を務めている。

しかし、このような日々が長く続くはずはない。

それは分かっている。
分かっているからこそ、今の晴源は明日を思わなくなっていた。

生きるとは、刹那という細い綱の上を渡っていくようなもの。
次の一歩が奈落へと踏み出すものであってもかまわない…と。


物思いに沈んでいた晴源は、雨音の向こうに庵の戸の音を聞き、顔を上げた。
開いた戸から、笠をかぶった墨染めの衣が現れる。

――このような雨の中、どこに行かれるのか。
即座に立ち上がり、雨の中に飛び出そうとした。
しかし晴源に気づいた尼僧は、小さく頭を振ってそれを制し、
真っ直ぐに晴源のいる小屋まで来た。

墨染めの衣を纏っているにもかかわらず、尼僧が入ってきたとたん、
暗く湿っぽい小屋が、灯火を点したように明るくなる。

「あ…あの…何か私に」
心の臓が早鐘のように打つのを感じながら問うと、
尼僧は小さく頷いて胸に抱えてきた蓑を晴源に差し出した。
「この小屋では、雨に濡れましょう。
せめてもと思い、こちらをお持ちしました」
「あ、ありがとうございます」
雨に打たれてびしょ濡れの蓑だが、
尼僧が抱えていたどころだけが乾いて温かい。
受け取る時に一瞬触れた指先の柔らかな感触が、
つきん…と胸を刺す。

容赦なく雨の吹き込む小屋を見回し、尼僧は言った。
「雨が止むまで庵へどうぞ、と申し上げてもお断りになるのですか」
「はい。最初にお約束いたしましたから」
「土間でもここより雨はしのげます…と言っても?」
こくりと頷く。

「頑固…なのですね、晴源殿は」
「すみません…無理を承知で押しかけたのは私ですから」
大きな瞳が、こちらを見上げている。

「なぜそこまでして下さるのですか」
「……いつぞやも、申し上げました。
后町井の呪詛を解いたばかりにお二人は」
「それが陰陽師のお務めなのでしょう?
晴源殿が気に病むことはありません」
「明らかな濡れ衣。あまりの仕打ちと思わないのですか」
穏やかな眼差しの中に、強い光が閃いた。
「思いますわ。ですからこうして、中の君様と共に落飾して内裏を出ました。
ただ一人でも、君様から離れない者がいること…
中宮様のお心に留めていただけたはず」
「では……事の裏をあなたは…」
尼僧は初めて眼を伏せた。
「滅多なことを言うものではありませんね。今の言葉はお忘れ下さい。
このような形でしか、私は中の君様をお守りできないのです。
お側にいることで、少しでもお力になれるのならば…と」

――私はあなたを守りたいのです。
あなたの側にいたいのです。

想いが言の葉となって口をついて出て行こうとする。
手を伸ばせば、たやすく抱き寄せることができる。

だがそうしたなら、今という刹那を永遠に失ってしまう。
やっと繋ぎ得た細い絆が、断ち切られてしまう。
何より、そのような真似はしないと、自分は約束したのではないか。
それを信じたからこそ、こうして側近くにいられるのだ。

それでも、全てを壊しても…この想いをあなたに伝えたい……


心が激しく揺れた瞬間、
晴源は異様な気を感じ取った。

――怨霊!

「どうなさったのですか?」
今までとは打って変わった晴源の様子に、尼僧は訝しげに問う。

晴源は、手にした蓑を身につけた。
「これが早速役に立ちました」
「どこかに行かれるのですか?」

小屋の戸を開け、外へ出た。
雨と風が、さっきまでの迷いを払う。
「怨霊が近くにいます。
退治してきますので、どうか草庵から一歩もお出になりませんように」
「怨霊が…」
尼僧は眼を見張った。恐れと驚きに、顔が青ざめていく。
晴源は笑顔を向け、明るく言った。
「ご安心下さい。すぐに戻って参ります」

「どうぞ、ご無事で…」
祈るような声を背に聞きながら、雨を突いて走り出す。
抑えても抑えても、心が沸き立つ。

――これではいけない。
このような心のままに術を使ったらどうなるか…。

晴源は、沼の怨霊との戦いで晴明の呪縛を破り、そのまま屋敷を出奔してきたのだ。
怨霊を倒すためには術を使わなければならないが、力の加減がよく分からない。

――あの時は、沼が一つ消し飛んでしまった。
ここで同じことをしたら、草庵が危ない。

化野の辺りからやって来たものか、牛に似た怨霊が山の気の澱みの中で咆哮している。

なるべく遠くへ引き離さなくては。

晴源は怨霊の真ん前に躍り出ると、小さな気を飛ばし存在を気づかせる。
怨霊の小さな目がゆっくりと動き、晴源を捉えた。
と次の瞬間、ぐわっと牙を剥き襲いかかってくる。
ひらりと身をかわし、ぬかるんだ道を泥を蹴散らしながら晴源は走った。
遠くへ、遠くへ――。

そしてしばしの後、山を揺るがして凄まじい音が轟いた。
粉々になった木々の梢が、風雨の中に吹き飛ばされる。

深くえぐられた黒い地面の底で何かが蠢いたことに、
晴源は気づかなかった。



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―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時  3.分断  4.護法  5.傷心  6.式神
7.前夜  8.心を映すもの  9.雷雲  10.惨劇  11.(わか)
12.雨の後  13.岐路  14.散滅  15.予兆
16.逃走  17.行方

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2009.10.12  筆