一条戻り橋にほど近い安倍家の屋敷。
勅使の述べる口上を、安倍晴明は眉一つ動かさず最後まで傾聴していたが、
形通りの結びの言葉で話が締めくくられると、低い声で問い返す。
「祓えの儀式を…と? この時期にか」
その言葉に、今まで何を聞いていたのだと言わんばかりに、
朝廷の使者はつんと顎を上げて苛立たしげに答えた。
「鬼が京から消えた後、このような怨霊が現れたのは初めてのこと。
さらには左大臣殿を狙ったとなれば、これは見過ごすことのできぬ大事。
就いては晴明殿と安倍家も、帝の御心を安んじるため、
大津の陰陽師と力を合わせ、京の街から穢れを祓ってもらいたい」
「大津か」
晴明の眼が鋭く光った意味を、使者は見誤った。
比類無き陰陽師といえど、自身の地位を脅かすものに対しては
内心、含むところがあるのだろう…と。
しかしもちろんのこと、晴明の真意は別の所にある。
当然、目の前にいる内裏の空気にどっぷりと浸かった男が
自分をどう思っているかなど考慮の外だ。
「大津の宗主殿は儀式の場に足を運ばれるのか」
「無論。これは右大臣殿直々の差配による大々的な儀式なのですぞ。
何より、この儀式には京の安泰、内裏の安泰がかかっておる。
晴明殿にも、そこはしかと心得て頂かなくては」
晴明はしばし沈黙した。
さすがの安倍晴明も恐れ入ったのだろうと、使者の顎がますます上向きになったその時、
「その日取り、宗主殿の決めたことか?」
ふいに晴明が言った。
虚を突かれた使者は一瞬うろたえるが、慌てて威儀を取り繕う。
「この儀式で何かを決めることができるのは右大臣殿お一人だけだ」
「大事というなら、日にちは最も肝要。占うてみる必要がある」
「もう決まったのじゃ! その日取りでもう皆動いている」
「怨霊が出たのは今朝方と聞く。拙速に過ぎますぞ」
「一刻も早く手を打たねばならぬ時に、拙速とはこれ如何に。
最後に話を持ってこられたのが、それほど癇に障ったのか」
「そのような小さい話をしているのではない!」
晴明の覇気に打たれ、勅使は座していながら腰を抜かしそうになった。
長居は無用だ。
「き…聞く耳持ちませんな。私は朝儀の決定を知らせに来ただけ。
役目以上のことをとやかく言われる筋合いはありませんぞ。
これにて失礼させていただく」
勅使は憤然と立ち上がったつもりが、足が震えてよろりとよろけ、
小さく舌打ちすると部屋を出て行った。
左大臣はまだ目を開かない。
しかし荒かった呼吸が落ち着いてきたのが見て取れた。
広がっていた紫斑は消え、青ざめた頬にも血の気が少し戻っている。
「さすがだね、泰明殿。見事な手際だ」
友雅はそう言って立ち上がった。
「外で待っている藤姫や神子殿達に、左大臣殿の無事を報せてくるよ」
その背に向かい、泰明は言う。
「まだ油断はできない。まずは左大臣を別の部屋に移せ。
疫神の撒いた瘴気は消えたが、ここにはまだ、嫌な気が残っている」
頼久は唇を引き結び、友雅は足を止めた。
「…分かった。すぐに用意させよう」
短く答えると、友雅は足早に部屋を出た。
泰明は右手をかざし、左大臣の頭から足元に向かってゆっくり動かしていく。
淡い光が左大臣を覆った。
万が一に備え結界を張ったのだ。
そして部屋の中に漂う嫌な気の元を探る。
次第に強くなってくるそれが、左大臣が部屋を移るまでおとなしくしている保障はない。
「頼久、乾の屏風の陰だ」
無言のまま頼久は剣を構え、身を低くして走った。
屏風を倒すと同時にその後ろに飛び込む。
そこには凝り固まった闇が、うずくまっている。
間髪入れずに刺し貫いた頼久の剣の切っ先が、ぬるりと滑った。
――これは、陰陽寮で取り逃がした……
泰明の術が閃光を放つ。
光の突き刺さった部分がねじ切れたと見る間に、
ぽとりと落ちたそれが元と同じ形の塊となって蠢き出した。
ぬめぬめとした二つの塊は、鎌首をもたげるようにして立ち上がる。
「泰明殿、これはいったい…」
「迂闊に斬らぬ方がいいようだ。斬れば斬るほど、こやつらは増える」
『増えて困るか…ならば増えて…みせようか…』
ねとりとした声が漂った。
「好きにはさせぬ!」
泰明が札を投げると、塊の脇に人の形に似た式神が現れた。
長い両手で鎌首を締め上げると、闇の色が褪せていく。
『我が眷属を屠り…鬼神までも…使うか…地の玄武』
――何っ!!
地の玄武…その言葉に、頼久と、再び部屋に入ってきた友雅は、
一瞬、息を止めた。
しかし泰明の瞳は、怒りに燃え上がる。
「お前なのか、神子を襲ったのは! お前はあの時の犬!」
くぐもった嗤いが部屋の四囲から立ち上った。
『もう…秘するまでもない…』
その言葉と同時に、壁が砕け、蔀が吹き飛んだ。
部屋のすぐ外で女達の悲鳴があがる。
泰明の眼には、全てがゆっくりとした動きのように映っていた。
扉のすぐ外にいたあかねを、隣の永泉がかばった。
その背に、吹き飛んだ格子が倒れかかる。
「神子!」
駆け寄りながら気を飛ばすと、永泉にのしかかった重い格子は反対側に倒れた。
そこに、傷を負った鷹通とイノリが来る。
だが、闇の方が疾かった。
鬼神に押さえられた足元から黒い塊が一直線に走り、
永泉を弾き飛ばすと、その下にいたあかねに巻き付いた。
「や…泰明さん!!」
恐怖におののきながら、必死に手を伸ばすあかねの周りを、闇が覆っていく。
まるで、水の底に静かに沈んでいくように。
「神子っ!!」
泰明は地を蹴った。
薄闇に覆われたあかねに向かって手を伸ばす。
指が触れ、その手を捉える。
水の中のように、緩慢な動き。
二人の周りを、暗い帳が包んでいく。
「泰明さん…」
涙の滲んだ瞳が、胸を刺す。
――神子に恐ろしい思いをさせてしまった。
「大丈夫だ、神子」
抱き寄せて、くるりと身体の向きを入れ替える。
「泰…明さん? どうして?」
――こうすれば、お前は助かる。
人ならざる身に備わった力を全て使い、
あかねを明るい方に向かって押し出す。
「泰明さん! だめ! 泰明さんも一緒に」
あかねの眼から涙がこぼれ、
薄闇の空間をゆっくりと落ちて泰明の手に触れた。
熱い涙が…痛い。
「大丈夫だ、神子」
遠ざかっていくあかねに向かい、微笑んでみせる。
あかねはいやいやをするように首を振った。
その周りに、見慣れた装束の袖が幾つも現れ、
あかねは光の向こうに連れ戻された。
泰明の顔から笑みが消える。
腕を上げ一気に引き下ろすと、青い閃光が闇を貫いた。
その閃光の導く先、闇の底に、泰明は降り立つ。
―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時
2.草庵
4.護法
5.傷心
6.式神
7.前夜
8.心を映すもの
9.雷雲
10.惨劇
11.
12.雨の後
13.岐路
14.散滅
15.予兆
16.逃走
17.行方
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2009.10.19 筆