泰明が浅茅の救出に向かった――
式神を通じて知った事実は、晴明に安堵と懸念とを同時にもたらした。
『お師匠、式神を借り受ける』
泰明の判断と行動には寸刻の遅滞もない。
その強引さに晴明が苦笑するいとまもあらばこそ、
泰明は躊躇なく式神に命を下し、式神はそれに従った。
くちなわの式神は、晴明が一条戻り橋の下に置いている鬼神の一つ。
同じ式神と言っても、呪符から生じさせたものとは出自からして異なり、
異形の力を持つゆえに、術者の力量をもたちどころに看破する。
その式神を他者から借り受けるなど、容易いことではなく、
ましてやあの時のくちなわは、晴明の支配の下にあった。
晴明が是としたとはいえ、それを泰明は造作もなく己がものとしたのだ。
だが、浅茅は……。
晴源は何を思っているのか。
晴明の元からわざわざおびき出した子を怨霊に襲わせて、
如何にしようというのだろう。
嫌な胸騒ぎがする――。
しかし晴明は心中を表に出すことなく、今は永泉、友雅と向き合っている。
帝の身に看過できぬことが起きているやもしれぬ…という不安を、永泉は口にした。
その並外れた霊力の高さは、相対する晴明には手に取るように感じ取れる。
同時に、兄の身を気遣い、憂える真剣な思いもまた。
――法親王が見たという呪詛の影は真のものであろう。
晴明は永泉を安心させるように、深く頷いた。
「帝の呪詛は、必ずや祓いましょうぞ」
永泉の顔に、明るい色が差す。友雅もまた、その後ろで頭を下げた。
「ありがとうございます。
晴明殿のお力を借りることができるとは、何と心強いことでしょう」
「感謝します、晴明殿」
「では、内々の拝謁を取り計らって頂きたい」
「はい、何としても」
「早急に手筈を整えましょう」
その時、頼久が部屋の外から控えめに声をかけてきた。
立派な屋敷で客分の扱いをされることに慣れていない頼久は、
自ら申し出て、警護をしているのだ。
安倍晴明の部屋に武士の警護が必要かどうか、ではなく、
何もせずに客人として振る舞っていること自体、
どうにも居心地が悪くてならなかったからだ。
晴明が許可すると、弟子が一人、紙の札を手に部屋に入る。
そこに集っている娘、僧侶、貴族に街人、武士という異様な取り合わせに
弟子は一瞬驚くが、気持ちを表情に出すことなく、
晴明の前に進み出て呪符を手渡した。
何も言わないのは、状況を慮ってのこと。
安倍家内々の事柄を、外部の者の耳に入れる必要はないのだから。
紙の札は呪符。
長任が気を吹き込み、鷹の形に変じさせて安倍の屋敷に送ったものだ。
だが、目的の浅茅は見つからず、見習いの世話係が式神の言葉を受け取った。
浅茅がいなくなったこと、その行方を他ならぬ安倍晴明が案じていることは、
世話係も知っていた。
そこで、元の呪符に戻った式神は、見習いの世話係から、さらなる高弟へ、
そして晴明自身の元へと届けられたというわけだ。
呪符の紋様を指でなぞると、長任の声が晴明の耳に流れてくる。
晴明は眼を見開いた。
幼い浅茅を連れ、地に両手をついて震えていた女の姿が脳裏に蘇る。
――浅茅の母が…
行き倒れになるほどの傷を負いながら、息子に会いに来た…というか。
せっかく外に出してやったというのに、再び戻るとは愚かなものだ。
浅茅を助け出せと、晴明に命じられたか。
だが――邪魔はさせぬ。
浅茅には、もっと強くなってもらわねば……
分け与えし我が力に目覚めてもらわねばならぬのだ。
晴明の造りしモノよ。
お前の行く手には面白いものを置いてやろう。
陰陽師が怨霊を調伏しても、
龍神の神子なる娘が封印を成そうとも、
祓いきれぬ京の闇――累々と積み重なる罪業の深さを、垣間見るがいい。
泰明とくちなわは迷いなく分岐まで戻り、左に向かう道に入った。
と、奥まで続いていたはずの道の途中で、先を行く式神が急に動きを止め、
鎌首をもたげて威嚇の声を上げた。
くちなわの白く淡い光が照らす先に、無数の蠢く瘤を宿した瘴気の壁がある。
間髪入れず、泰明の手から呪符が飛ぶ。
それが壁に突き刺さると、蠢いていた瘤の一つ一つが裂け、
中からごつごつとした木の根が這い出てきた。
瘴気の壁には、女の顔が浮かび出ている。
「桜木精…。姿を変じてはいるが、この気は間違いなく墨染の怨霊だ」
木の根が泰明とくちなわに一斉に襲いかかった。
泰明の放つ紅蓮の桔梗印が全てを粉微塵にするが、すぐに次の攻撃が襲い来る。
桜木精は泰明にとっては相克。苦戦を強いられた相手であった。
「なぜだ、こやつは神子が封印したはず…。
それが、このように醜い姿となり、前よりも強い穢れを放っている」
ずず…ずざざ……
泰明の足元からも、幾本もの木の根が伸びてくる。
泰明は飛び退き、素早く四方を見回した。
桜木精が行く手を阻むということは、この道が正しいということだ。
ならば……
泰明の眼が、鋭い光を帯び、凄まじい気がその身に収斂していく。
――手加減は必要ない。
壁に両手を当てると、深奥に向かって気を放つ。
バリバリと鋭い音が走り、岩に亀裂が入った。
その底は、どこまで続くとも知れぬ深さ。
「行け」
短い命を発すると、くちなわはするすると亀裂に滑り込み、姿を消す。
横目でそれを見届けると、振り返り様、泰明は襲い来た根を素手で弾き飛ばした。
浅茅は追い詰められている。
一生懸命走りまわって、怨霊の向きを変えさせた。
逃げ込もうとしている隙間からも遠ざけた。
だが、体力が底をついてしまったのだ。
子供の身体では無理からぬこと。とうに倒れていても不思議はない。
よろよろと走る浅茅の後ろで、怨霊が大きな足で地面を深く薙いだ。
大量の土と小石が、浅茅に降り注ぐ。
土埃が眼に入り、視界を奪われて、浅茅は足をもつれさせて転んだ。
次の瞬間、風を切る音。咄嗟に横に転がって避ける。
瘴気が浅茅の顔に吹き付けた。
苦しい…。
でも、怨霊がすぐ近くにいる。逃げなきゃ…。
しかし、起き上がろうともがいた時、背中に岩壁を感じた。
逃げ場が…ない。
浅茅は身を縮め、式神をぎゅっと抱えた。
「ごめん…なさい…式神さん…ぼく、もう…」
怨霊の一撃が外れることだけを……、あり得ない僥倖を浅茅は祈った。
その時、
「くぉぉっ!」
式神の嘴が浅茅の腕を思い切りつついた。
「わっ」
痛さに緩めた腕の中から、式神はばさばさと羽音を立てて飛び出す。
あ、そうか。式神さんは逃がしてあげればよかったんだ。
早く気がついていれば……
そこまで考えて、浅茅は気づいた。
瘴気が遠ざかっている。
「式神さん…?」
起き上がって眼をこすり、涙目のまま周囲を見回す。
滲んだ視界に映ったのは、頭を振って暴れている怨霊だった。
浅茅の式神が、その頭部に爪を立て、嘴を突き立てている。
「くわぁぁっ!!」
式神は浅茅を見ると、隙間の方に小さく首を振った。
「あ…」
よろめく足を踏みしめて、浅茅は走る。
それに気づいた怨霊が向きを変えた。
式神は怨霊の頭から飛び立つと、怨霊の目の前すれすれに飛び、
挑発するように鳴いた。
血走った怨霊の目が式神を追い、うるさそうに頭をぶん!と振ると、
小さな式神は、その風圧でたやすくはね飛ばされる。
「式神さん!!」
浅茅が叫んだ。
刹那、もぞり…と、忘れようとしていた何かが、動く。
その瞬間、小さな式神の身体が、ぶわっと大きくなった。
そして岩壁に激突する寸前、式神は反転し、再び怨霊に向かっていく。
何が…起きたの……
分からぬまま、浅茅は力の入らぬ足を踏み出した。
走っているつもりなのに、ちっとも前に進めない。
式神さんが怨霊を止めてくれてる…ぼくのために…その間に…
しかし、浅茅が隙間にたどり着くより早く、
「ギ! グギャアアアッ!!」
いきりたった怨霊の牙が、式神の翼を捕らえた。
式神は自由な方の翼で怨霊の顔を叩き嘴を突き立てるが、怨霊は怯む様子もない。
「式神さん…」
目の前の光景が信じられず、浅茅はがくがくと震えた。
もぞり…
式神がさらに大きくなった。
やっと思い立って、浅茅は呪を唱える。
「札に戻って、式神さん!」
もぞり…
式神の鋭い嘴が、怨霊の顔を削いだ。
「ギギギギャァァァ!」
怨霊の牙が離れる。
式神は力強く羽ばたいて、浅茅に向かって飛んできた。
そしてガシッと浅茅の頭を掴み、
「痛たたたたた!!」
浅茅が悲鳴を上げるのも構わず、隙間の前まで運ぶとそのまま放り出した。
必死で隙間に潜り込むと、浅茅は振り返った。
「ありがとう式神さん!もう大丈夫だから札に戻って」
しかし、そこは安全な場所ではなかったのだ。
怨霊は岩壁に身体を打ち付けると、
浅茅の逃げ込んだ隙間に濃密な瘴気を吹き付けた。
どろどろと岩が溶け、瘴気を孕んだ泥土となって浅茅に向かって流れてくる。
意識が薄れていく。
浅茅の中で、もぞり!もぞり!と何かが激しく動く。
だめだ…このままじゃ…
向こうに式神さんもいるのに…
瘴気…どうやって祓えばいいの…
と、流れ来る瘴気が止まり、隙間を塞いでいた怨霊が唐突に離れた。
暗い裂け目の中から、外が少しだけ見える。
そこに浅茅が見たのは、燃え上がる怨霊。
そして、大きな翼で怨霊に覆い被さった鳥の式神。
式神もまた、炎に包まれている。
「くぅるるるっ!!」
鳥が啼く度に、翼が燃え、尾が燃え、柔らかな腹の羽毛が燃えて、
その炎が怨霊に燃え移る。
「式神さん…」
泥土のまっただ中を転げながら抜け、無我夢中で浅茅は外に飛び出した。
ごろごろと斜面を転がり落ちながら、叫ぶ。
「戻って!」
「くぅるるるっ!」
「お願いだから!」
「くぅぅぅ!」
「戻れええええっ!!!!」
最期に式神から返ったのは、小さな鳴き声だけだった。
ばらばらぼろぼろと、怨霊の身体が崩れていく。
浅茅の頭の上に、札の燃えかすがひとひら、落ちてきた。
「わああああああああ!!!!」
身を裂く悲鳴が浅茅の喉を突き破り、迸り出た。
もぞりもぞりもぞり……
浅茅の中のそれもまた、外に出ようと蠢いている。
―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時
2.草庵
3.分断
4.護法
5.傷心
6.式神
7.前夜
8.心を映すもの
9.雷雲
10.惨劇
11.
16.逃走
17.行方
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2010.03.08 筆