花の還る場所  第三部

17.行 方


安倍屋敷の車宿から永泉の牛車がごとり、と動き出した。
いつもより心なしか、牛の足取りが重い。

牛飼童は不審に思うが、それは僅かの間のことだった。
彼にとって心許ないのは、法親王様がこともあろうに
土御門に護衛の者を置いてきてしまったことだ。
だから、ここまで来る時に同道した貴族の美しい武官と、
強面の京職が一緒に来ることになったと聞いた時には、心から安堵した。
夜ともなれば怨霊に加え、夜盗の類に襲われても不思議はないのだから。

晴明の式神と対峙している所に、これ見よがしに表の門から出てきた牛車を、
当然のことながら検非違使達は呼び止めた。
と、牛車の横についた馬から、長い髪の男がひらりと飛び降り、
彼らを率いる衛門尉に耳打ちする。
「な…何い! 法親王様だと?」
「しっ、声が高いよ。とにかく、あまり失礼なことはしない方がよいのではないかな」
「む…誰かと思えば、左近衛府少将殿ではないか」
「おや、私を知っているようだね」
「知らぬ者はおらん」
「ははっ、光栄だよ。では、いいかな」
衛門尉は唸ったが、すぐに大きく頭を振ると牛車に近づいた。
そして、簾の向こうに向けて恭しく礼をする。
「畏れながら申し上げます。それがしは衛門尉…」
要は、物見だけでも開いて、中を確認させてくれというのだ。

牛車の中から、永泉のきっぱりと断る震え声が、か細く聞こえてくる。
「あ、あの…そのようなことは…できません」
これならば、もう一押しすれば――衛門尉がそう思った時、
突然、牛車の反対側に控えていた馬が高く嘶いて前足を振り上げた。
馬上にいるのは、京職の男だ。
「お、おい! 今のを見たか!?」
男は切羽詰まった声を上げ、塀の上を指さす。

「何事だ!」
検非違使達が声を荒げて詰め寄ると、京職の男はさらなる大声で答えた。
「何かが塀の上で動いたんだよ!
お前ら、変な音がしたのに気づかなかったのか?」
検非違使達は首をひねる。
「本当か?」
「わしは何も聞いておらんぞ」
「見間違いじゃないのか」

一斉に反論を受け、男は少し自信を失ったのか、首の後ろをぼりぼりと掻いた。
「いや、確かに見たってわけじゃねえんだ。
星明かりではっきりしなかったが、黒い物が動いていたような…」
「ふん、見間違いであろう」
「あやつであれば、わざわざ我らが集まっている所から逃げようなどとは…」

京職の男は、うんうんと頷いた。
「ま、その人影がこっちに向かって手を動かしたように見えたとたん
馬が暴れたのも、偶然だろうな」

「何だと?」
「術を使ったのか?」
「それを早く言え!」

検非違使と男とのやり取りの間、衛門尉は、晴明から目を離さなかった。
晴明は最初かすかに肩を強張らせ、ちらりと塀に眼をやり、
やがて小さな吐息と共に肩の力を抜いた。

――浮世離れした陰陽師かと思えば、何とも老獪な爺さんだ。

これ以上ここにいても埒が開かぬと判断した衛門尉は、
友雅に向かって牛車を止めたことを詫び、
晴明には追って沙汰を待つようにと言い残してその場を引き上げた。

大げさに事を構えた割に、得る物のない出動であった。
一行が徒労感に包まれる中、衛門尉は徒の者を三人呼びつける。
命を受けた彼らは直ちに一団から抜け、牛車の後を追って夜陰に姿を消した。





松明の灯りがつつましく照らす夜の道を、
がたがたごとごとと牛車が進んでいく。
護衛が二人ついたにも関わらず、まだ夜陰に怯えている牛飼童は、
松明の光の先に何が潜んでいるか、気が気ではない。

「なかなかの役者ぶりだったが、よかったのかい。
後で立場が悪くなるんじゃないのかな」
「立場がどうのなんて考えてたら、何もできないじゃねえか」
「ふふ、君は変わった御仁だね。
だが、おかげでさっさと屋敷を出ることができてよかったよ。
法親王の立場を振りかざして、
『牛車の中は見せない。すぐにここを通せ』と
ごり押しする永泉様を見たかったような気もするのだが」

二人の話は、当然牛車の中まで聞こえているのだろう。
焦りと抗議の気配が伝わってくる。

京職の男は、首の後ろを掻いた。
「だが、本当に尾行のやつらをまかなくていいのか?
あの衛門尉はそんなに間抜けじゃねえぞ」
「その辺りは、中にいる泰明殿がいかようにでも計らうさ。
とにかく、安倍の屋敷から出た、という事実だけは
検非違使……に、掴ませておかなくてはならないのでね」

「検非違使にか? 奥歯にものの挟まったような言い方だな」
「年のせいでね、少し歯が悪いのだよ」
「つまらねえ冗談だ」
「だが私には、左京職少進殿がここまで協力してくれることの方が
何かの冗談のように思えてならないのだが」
「ふざけるなよ。俺は京職だぜ。橋や道の修繕ばかりが仕事じゃねえんだ」
「つまり、こうして私達に助力しているのも、仕事の内ということかな」
「ああ、そうだ。まあ、少なくとも俺はそう思ってる。
簡単に言うとだな、俺は宗主ってやつが気に食わねえんだ」
友雅は眉を上げた。
「これはまた、分かりやすい答えだ。
そういえば君は以前から、街衆の間に広まっている噂を耳にしていたんだったね」
「ああ、やつは胡散臭い。人助けしているようでいて、どこか真っ当じゃねえんだ。
あんたらの話では、検非違使の背後にも宗主がいるらしいってことだろう?」
「しっかりと聞き耳を立てていたのだね」
「心に引っかかってる言葉が聞こえたら、素通りはできねえ。
それにな、あんたらは信じてもいい、と思えるんだ」
自分の青臭い言葉に照れたのか、男は首の後ろに手をやり、そのまま押し黙った。




永泉の牛車の中で、あかねと泰明は息を潜めている。

泰明と共に屋敷から逃げる――それは簡単なことに思われた。

「泰明なら、術でぱぱーっと姿を消せるだろ。楽勝じゃん」
イノリの言葉に、一度は頷いたあかねだったが……
「そのようにしたら、泰明殿がまだ屋敷の中にいる、と検非違使は判断するでしょう」
「別にいいんじゃねえか…って、
あっ、それだと晴明のおっちゃんがマズい立場になるな」
「右大臣が絡んで検非違使庁を動かしたことは、間違いないだろうからね。
その意向に逆らって、弟子可愛さに罪人を匿っている形になってしまう。
微罪で捕らえておいて、後から次々と罪を被せるのは、
残念ながら珍しいことではないのだよ」
「泰明殿が匿われているとなれば、この屋敷に監視がつくかと存じます。
晴明殿なれば付け入る隙を与えることはないでしょう。
しかし、この御屋敷には晴明殿お一人ではなく、大勢の者が起居しています。
中には思慮の十分でない者もいるのではないでしょうか」

「では、私が屋敷を出た…と知らしめればよいのだな」
「ただし式神などは使わず、彼らがきちんと確認できる方法を取るべきだと思います」
「私も鷹通に賛成だ。何しろ陰陽師相手だからね。彼らも疑い深くなっているはずだよ」
「神子、泰明殿…どうか私の…」

ここに至って、事はそれほど単純なものではないのだと、
あかねは改めて気づかされた。
晴明は、泰明を匿おうと決めたならば、万難を排してもそれを成すだろう。
しかし、姿を隠すことを勧めた――

これから、どうなるのだろう。
私は何をすればいいのだろう。
私は泰明さんに、何をしてあげることができるのだろう。

京は禍事に見舞われるのだろうか。
晴明様は、そう考えているようだ。
いや、それは考えというより、確信に近いものなのかもしれない。
禍事の背後に、かつての愛弟子がいることもまた…。

「案ずるな、神子」
あかねの憂いを察した泰明が、耳元にささやいた。
あかねを励ますように、肩に回した腕に力をこめる。
永泉はぽっと頬を染めて眼を伏せた。

――そうだ、心配していても、何も変わらない。
あかねは泰明に向かい、小さく微笑んだ。

それに私達には、仲間がいる。

「摂津に縁の里がございます。
京を出ることになったなら、ご案内いたします」
「隠れるんなら、人が多い所ほど目立たなくていいんだぜ。
困ったらオレの所へ来いよ。
あかねと泰明の五人や十人、オレがいくらでも匿ってやるからさ」
「京の街には、神子殿を見知っている者もおりましょう。
桂の荘園に別邸がありますので、危うくなったらいつでもお使い下さい」
「左京四条にある私の屋敷に来ないかい、神子殿」
「断る」
「歓迎するよ」
「だから断る」

別れ際のみんなの言葉が、心をあたたかく満たす。

不思議な絆だ。
深い関わりなど無いままに生きてきた年齢も身分も違う者達が、
今ではこうして助け合い、忍び寄る魔に立ち向かおうとしている。

――みんな、ありがとう。
あかねは泰明の胸に頭を預け、再び小さく微笑んだ。



――尾行者は三人。
泰明は、自らのやるべきことをはっきりと掴んでいる。

三人は、永泉の居所である御室の寺まで足労させる。
そこで彼らは、閉じる寸前の門の隙間から、泰明とあかねの姿を垣間見ることだろう。
彼らが再度山門を開けさせたとしても、暗い大寺院で迷うだけ。
取って返して夜が明けてから検非違使が踏み込んでも、
代々の法親王が門跡を務める格式高い寺の中で、気まずい思いをするだけだ。

眠り込ませたり、幻を見せることは容易い。
だが、その身体が遠い道を歩いたという事実、
その目が見たという事実に勝るものはないのだ。
しかし、検非違使の尾行を振り切るなど、ささいなこと。

泰明は、晴明の真の意図を理解していた。

――安倍の陰陽師としての軛を離れ、
やがて来る、宗主…晴源との対決の時に備えよ――と。

お師匠、その日は近い。

くちなわを通じて知った、京の祓え――
安倍と大津が協力して行うという、大がかりな儀式。
宗主は必ず、その場に現れる。



第三部 了





―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時  2.草庵  3.分断  4.護法  5.傷心
6.式神  7.前夜  8.心を映すもの  9.雷雲  10.惨劇
11.(わか)  12.雨の後  13.岐路  14.散滅  15.予兆  16.逃走
第四部
1.呪詛

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2010.03.22 筆