一条の橋のたもとから、純白の鷺が飛び立った。
晴明の使役する式神だ。
本来の形は怖ろしい形相の鬼神なのだが、
役目のため、ほっそりと優しげな仮の姿を与えられている。
白鷺は橋の上で大きく旋回すると、巽の方角へと飛び去った。
その少し前のこと、朝廷からの遣いが帰った後、安倍家では高弟達が集まり、
祓えの儀式について話し合いが行われていた。
緊急にことが決まったうえに、規模が大きいとなれば、
すぐにでも準備に取りかからなければならない。
人の振り分け、祓えに関わる呪具の用意等々、
一つずつ上げていったなら、やるべきことは数え切れないほど多い。
しかし、話し合いはなかなか進まなかった。
無理もない。大津と共同で儀式を執り行わねばならないのだから。
源を同じくしているとはいえ、双方は異なる流れ。
とはいえ、それぞれが勝手な手順で進めることはできない。
となれば、お互いに調整が必要であろう。
そこで、意見が分かれた。
大津がこちらに伺いを立てに、使者を寄越すのが筋だ、と言う者。
権威にこだわるだけでは話が進まぬ、と言うもの。
とりあえず遣いだけでも出して、こちらに来るように伝えよう、と言う者。
皆、以前に行われた陰陽勝負のことが頭にある。
どうにも大津に対しては構えてしまうのだ。
話はほどなくして膠着し、その場の者達は皆黙した。
最年長の弟子が、すがるように上に座す晴明に目をやった時だ。
大きな気の揺らぎが、波のように押し寄せて消えていったのだ。
何事!と、腰を浮かす弟子達を押しとどめ、晴明はぴしりと言った。
「この程度でうろたえるな。すでに式神を放った。
お前達は為すべき事をせよ」
ほうっ……
弟子達から一斉に感嘆の吐息が漏れる。
さすがにお師匠様だ。間髪入れず、手を打っていらっしゃるとは。
しかし彼らの中に、晴明の厳しい声の底にある、
かすかな懸念の色を見て取る者はいなかった。
泰明が屋敷を飛び出してから、すでに数刻が経つ。
龍神の神子の身に何かあったのだろうか。
晴明を晴明たらしめているものが、その通りだと告げている。
そして、神子に危機が訪れたなら、泰明は……
大きな気の揺らぎが、土御門で起きた事件ゆえのこととは、
晴明とて知りようがない。
その元を探るため、白鷺は飛んでいる。
真っ直ぐに、左大臣の屋敷を目指して。
つんつんつん…
何かが頭をつついている。
つんっつんっつんっ!
「痛っ」
髪の毛を引っ張られて、浅茅は眼を覚ました。
身体を起こそうとするが、頭に何かが乗っている。
手を伸ばすと、ふわふわした羽毛が指先に触れた。
寝ぼけまなこで周囲を見回し、一気に記憶が蘇る。
父と名乗る怖ろしい男に置き去りにされた後、
あれこれと悲しいことばかりが頭の中に堂々巡りして、
浅茅は泣きながら眠ってしまっていたのだ。
「クワッ!」
浅茅の頭上で鳴き声がしたと同時に、急に頭が軽くなった。
続いてばさばさという羽音。
目の前に下りてきたのは、鳥の形をした浅茅の式神だ。
呼び出していないのに、勝手に札から出てきたらしい。
「ぼくの頭をつっついたの、式神さん?」
鳥は小さく「クゥルルッ」と鳴いた。
「痛かったよ」
鳥はじっと浅茅を見上げている。
「もしかして、起こしてくれたの?」
「クゥルルルッ!」
首を上に伸ばして鳴くと、鳥はばさばさと翼を動かした。
「あれ?」
いつもの羽音と違うことに気づいてよく見てみると、片翼に大きな傷がある。
「この傷、もしかしてさっき落ちた時に…」
「クゥックッ」
「ごめんなさい」
浅茅はそっと傷に触れた。
鳥の形を模した浅茅の式神は、元々は呪の描かれた紙の札。
傷に人の手が触れても痛みを感じないのだろう。
鳥はおとなしくしている。
治癒の術などまだ知らぬ浅茅だ。
だが、必死で念じてみる。
――ぼくの気で、式神さんはこの形になっている。
ならば、ぼくが傷のない形を思ったら、治るかもしれない。
身体の中であの怖いものが動くのではないかと思うと、
背筋が冷たくなる。
だが、浅茅は念じるの止めない。
ややあって、
「クゥゥゥ…」
鳥が、浅茅の腕に頭をすりすりとこすりつけた。
その感触で、浅茅は自分がきつく目を閉じていたことに気づく。
手に触れていた傷は見えなくなっている。
「治った?」
「クゥルルッ」
鳥は力強く鳴き、翼を動かしてみせた。
「うわあ! よかったあ!!」
浅茅は大きな声で叫んだ。
洞窟にその声が谺する。
うわあ…うわ……う………
よかった…よかっ……よか………
よく響くんだなあ…。
何だか面白くなって、浅茅はもう一度叫んだ。
「わあああっ!!」
わあああ…わああ……わぁ……わ…
浅茅は元気よく立ち上がった。
身体の中の痛みは消えている。
眠ったせいか、さっきよりずっと気分がいい。
一人でくよくよ考えていても仕方ない、と今は思える。
――お母さんは、お父さんが陰陽師だったって、知ってるんだ。
だからぼくを安倍の家に預けたんだ。
ぼくに、立派な陰陽師になるようにって言ったのは、
あの人みたいになっちゃいけない、ってことだったのかもしれない。
あれ? でも……お父さんのことを話す時の母さんは、
いつも懐かしそうで、すごく優しい顔をしていた。
お父さんは、母さんのこともぼくのことも、とても大切にしてくれたって。
とてもあたたかな人だったって。
ええと…だったら、お父さんみたいになりなさいってことかな…????
また混乱してきて、浅茅はふるふると頭を振った。
今は、ここから逃げ出すことだけ考えよう。
安倍のお屋敷に戻って、お師匠様に聞いてみるんだ!
浅茅は洞窟の壁を調べ始めた。
「クエックルッ」
鳥は一声鳴くと、浅茅の頭の上にまた飛び乗った。
篝火の前で、泰明と宗主が対峙している。
手を伸ばしても届かぬ間合いをとってはいるが、
術の打ち合いになれば、そのような距離など無意味だ。
それでも、炎に照らされた互いの姿を、間近に見ていることは間違いない。
ふわふわと浮かんでいた老人二人は、今は篝火の後ろにうずくまり、
黒い岩となったように動かない。
宗主の闇色の瞳が、じっと泰明を見据えている。
泰明の眼が、真っ直ぐにその視線を見返す。
しばしの沈黙の後、宗主の赤い唇が動いた。
「私は龍神の神子を呼んだのだ。
どうしてここに来たのか、造化のモノよ」
冷ややかな声だ。
それには答えず、泰明は怒りを抑えて問う。
「なぜ神子を狙った」
宗主はかすかに眉を顰めた。
「人間の女に執着しているのか
それとも龍神の神子の神気に引かれたか…」
形のよい唇が歪む。
「晴明は、できそこないを作ったのだな」
泰明の声が低く激しくなる。
「答えろ。神子を連れ去り、どうするつもりだった」
「怒りか? そのような感情も持つか」
「私は人だ。人には心がある、感情がある」
泰明の言葉など意に介さず、宗主はにべもなく言った。
「人にあらぬモノを受け入れた龍神の神子は、何を思ったのか。
同情か哀れみか…。分からぬ」
泰明の眼に、怒りが燃え上がる。
「神子をそのような言の葉で穢すな!!」
しかし宗主は小さな笑みを浮かべただけ。
じり…と前に出た泰明に、宗主は言った。
「魂無きモノよ。
お前が心を持つと言うのなら、それを証明して見せよ。
会いたいと願うがいい、お前の大切な者に。
我が力で、この暗き洞窟の底へ呼び寄せてやろう」
泰明は足を止めた。
「願い…?」
宗主の笑みが大きくなる。
「お前に心があるならば、その願いは真実。
真実の願いならば、それは形となって現れよう」
宗主はすっと腕を上げ、篝火の奥の暗がりを指した。
「あれを見るがいい」
泰明は宗主の白い指の示す方向に顔を向けた。
そちらに向けて一歩二歩と、魅入られたように足を進める。
宗主の声が、呪のような律動を持って泰明の耳に届く。
「いるであろう…お前の大切な者が。
さあ、行くがいい…もっと近くへ…」
篝火が踊り、宗主の長い髪がなびく。
背を向けた泰明に向かい、宗主は印を結んだ。
収束した気が矢のように飛ぶ。
その刹那――
中空に現れた桔梗印が宗主の術を弾き、
暗闇に無数の火花が飛び散った。
泰明がゆっくりと振り向く。
「宗主、やはり、お前の術はまやかしだ」
―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時
2.草庵
3.分断
4.護法
5.傷心
7.前夜
8.心を映すもの
9.雷雲
10.惨劇
11.
12.雨の後
13.岐路
14.散滅
15.予兆
16.逃走
17.行方
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2009.11.17 筆