花の還る場所  第三部

4.護 法


「いやあああ!! 泰明さん!! 泰明さん!!」
あかねの悲鳴が皆の心を刺す。

泰明を飲み込んだ闇は、みるみるうちに薄らいて消えていった。
左大臣の部屋で式神に押さえられていた黒い塊も、
最後にぶるっと身震いして跡形もなく消え去った。
式神はいつの間にかいなくなっている。

穏やかな午後の日射しが、左大臣の部屋に長く射し込み、
庭では雀が鳴き、遣り水の音が聞こえてくる。
いつもの長閑な昼下がりと変わらぬ風景だ。

左大臣の部屋の前で呻く怪我人と、砕け散った大小の木片さえなければ……。

「泰明さんの所に行かせて! お願い!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、あかねはもがき続けている。
その両腕を鷹通と友雅が押さえ、周囲を取り巻いた皆が沈痛な面持ちで言葉をかけている。

「神子殿…、剣を帯びた身でありながら何のお力にもなれず、申し訳ありません」
「泰明のこと信じてやれよ。絶対無事だって!」
「神子殿、お気持ちは分かりますが、どうぞ落ち着いて下さい」
「落ち着くなんて無理です、鷹通さん!
私…私はもう神子じゃないから…だから封印もできなくて…
そのせいで泰明さんが…怨霊に…」
「神子、そのようにご自分を責めることはありません」
「その通りだよ。花のかんばせをこれ以上涙で濡らすことはない。
恐ろしい思いをしたのだから、あちらで私と一緒にゆっくり休…」

「さっさと神子から手を離せ! 鷹通に友雅!」

「え?」
あかねが顔を上げた。

「泰明…殿?」
「泰明の声だよな」
「はい、空耳ではありません」
「そうだね、この言い方はまさしく泰明殿だ
「あ…神子…その簪は」

皆が一斉に見ると、あかねの髪に挿した簪の花房が、しっしっと
鷹通と友雅を追い払うように動いている。

「泰明さん! 無事だったんですね!」
あかねは簪を引き抜くと、両手でそっと挟み頬を押し当てた。
花房がほんのりと赤くなり、泰明の声が答える。
「問題ない」

「さすがは泰明だぜ」
イノリがほっとしたように笑顔を見せた。
「怪我はありませんか、泰明さん」
「案ずるな、神子。お前こそ、怪我はないか」
「私なら大丈夫ですよ」

そこへ友雅が割って入った。
「お話中のところを邪魔して申し訳ないのだが、
泰明殿は今どこにいるのかな」

「分からぬ」
「泰明さん、どういうことですか?」
「私は洞窟の中にいる。
だが、どこの洞窟かは分からない、ということだ」
「土御門の地の底、という可能性はないのですか」
「ここはどこか別の場所だ。
龍脈の流れが近い。土御門で感じる流れとは、強さも方向も異なる」
「じゃあ、どうやって泰明さんを助ければ…」
あかねの声が震えた。

「神子、泣いているのか…すまぬ」
あかねは慌ててごしごしと眼をこすり、零れそうになった涙を拭う。
「泣いてませんよ、泰明さん」

花房がそっと持ち上がり、あかねの頬に残る涙の痕に触れた。
「私を助けに来る必要はない。
ここで成すべきことをすませたら、すぐに戻る」
「成すべきこと?」
「やはり、そこに何かがあるのですか?」
「それが何なのか、教えてくれるかい」

簪があかねの手から滑り出ると、ゆっくりと髪に戻っていく。

「分からぬか。あの闇は神子を狙ったのだ。
つまりここには、神子を攫おうとした者がいるはず」

あかねは叫んだ。
「泰明さん、無茶をしないで!
出口を探して、戻ってきて!!」

「この洞窟に来て確信した。
この闇の向こうにいるのは安倍晴源。
私は、晴源を倒しに行く」

簪の花房が、はらり…と下がり、泰明の声はそこで途切れた。





暗く青い光の中、浅茅は膝を抱えてうずくまっている。
身体の中で蠢いていたものは、今はもぞとも動かず静かだ。

涙の乾いた目と頬が、ひりひりと痛い。
血の出るほど噛みしめた唇が痛い。
ぎゅっと爪を立ててつかんでいる足が痛い。

心が痛い。

「う…う…うう…」
浅茅は言葉のないうめき声を漏らした。
「あ…あ…あああああぁぁ……」
滲み出た涙が、赤くなった目尻にしみる。



――あの時……

黒く長い髪を背に垂らし、
女性のように白く整った顔に闇の色の眼をした男が、言った。

『私は安倍晴源……
浅茅、お前は私の子だ』

手がかり足がかりもなく宙に浮かんでいる恐怖も、
身体の中から突き上げる痛みも忘れて浅茅は叫んでいた。
『なぜあんなことをしたの? なぜみんなが悲しむことをしたの?』

晴源の闇の色の眼が、ゆっくり瞬きをした。
『お前は何を問うている?』
一気に激しい気持ちをぶつける。
『晴咒って人は穴の底に落ちて死んじゃったんだよ。
行貞さんはぼくをかばって大けがをして、
洞宣さんも長任さんも、怨霊に囲まれて……
泰明さんがいなかったら、他にもたくさんの人が傷ついたと思う。
なぜ、あんなことをしたの?』

形のよい唇が不快気に歪む。
『傷ついた…?
違う。晴明、帝も諸共に、内裏の塵となっていたはず』
あまりに素っ気ない言い方に、浅茅は胸が詰まった。
『どうしてそんなひどいことを…』

だが浅茅の気持ちは爪の先ほども、父と名乗る眼前の男には届いていない。
『哀れな子よ。
己の出自を知ってなお、くだらぬ怒りに身を任せるか』
『あなたが父さんだなんて、うそだ!
父さんは立派な人だったって、母さんは言ってた。
ぼくの父さんは、あなたみたいな悪い人じゃない!!』

白い顔に、観音像のような笑みが浮かぶ。
『私の為したこと、成そうとしていることは
人々を苦しみから救うためのもの』
『あなたは…うそつきだ』
『私はまことの言の葉を伝えている。
お前に真実を言わなかったのは誰か。
晴明は始めからお前の出自を知っていたはず』
『お師匠様が…?』

慈愛の笑みが、唐突に消え去る。
『お前に施された呪…陰陽の術者たる力を封じた呪は、
かつて晴明が私を縛したものと同じ。
自分の術を眼前にして気づかぬ晴明ではない』
『……知っていて、お師匠様は…ぼくを…』
『お前の母も、それを知っていながら、黙ってお前を晴明の元へと連れて行ったのだ』
『母さん…も』

次の瞬間、浅茅はどさりと地面に落とされた。
慌てて顔を上げて周囲を見回すが、そこに晴源の姿はない。

ゆら…と水底が揺れ、晴源の声が漂い来た。

『しばしの時は残されている。
内なる力を受け入れよ…浅茅』


そして再び、青い光の揺らめく洞窟に、浅茅は一人、残された。

ぼくは…ぼくは……どうすればいいの…
ぼくに…何ができるの…
何が本当のことなの…
ぼくは誰なの…
ぼくは……もう……何も…分からない…





蛍のような光が、闇の中を早足で歩く泰明の足元を照らしている。
進む方向に迷いはない。龍脈の流れに向かって行けばいい。
時折、足元に深い亀裂が現れるが、泰明はその上を軽々と飛び越して行く。

晴咒と遭遇したのは、この洞窟とそっくりの場所であった。
その時は、地上に建つ壊れた御堂と地下の洞窟とが繋がっていて、
洞窟には龍脈が流れていた。
そして晴咒を造り、そこから京を呪詛するようにと命じたのは、安倍晴源。

今度も同じやり方だ。ならば……

晴咒を思い出すと、泰明の胸がちりちりと痛む。
暗闇の中に一人置き去りにされて、呪い、破壊することだけを教えられた存在。
外の世界に憧れながら、その願いを叶えることもなく自らを壊し、塵となって消えた。
泰明と同じ…人の手により、生命を与えられた者。

その時ふと気配を感じ、泰明は足を止めた。
前方に金色の光が現れる。

闇の中、眩い光に包まれた中には、人の影が二つ見えた。
光は何かに引かれるように、真っ直ぐに泰明の前まで来る。
近くで見る人影は、あどけない笑みを浮かべた童子と童女。

童子は髪を角髪(みずら)に結い、 童女は顔の両脇の髪を、精緻な飾り紐で結んでいる。

二人は愛らしい声で交互に口を開いた。
「おやおやこれは」
「何としたこと」
「我ら、龍神の神子様を」
「お迎えに参りましたのに」
「現れたのは」
「人に非ず」

泰明は無表情のまま、印を結んで交差させた両手を真っ直ぐ横に引いた。
刹那、返した掌から気が迸り童子と童女を撃つ。

空中で、二人は支えを失ったようにくるくると回る。
「何を…」
「なさるのか…」
「我らは…」
「浄らかなる護法…ひいいいっ」
最後の悲鳴は、老人のものだった。

「護法童子の形を真似て、私を欺けると思ったか」
泰明の足元で、童子と童女の姿は老人へと変じ、地面に這いつくばったまま、
皺の奥に光る黒い豆粒のような目に恨めしげな色を浮かべている。

泰明がぐいっと一歩踏み出すと、
二人の老人は小さな悲鳴を上げて後ずさりした。
そのままふわりと宙に浮かんだところを、泰明は捕らえた。
「逃げる必要はない」
二人はじたばたと手足を動かし、口々に叫ぶ。
「お助けを…!」
「我らは哀れな年寄りにて…!」

泰明はそれに構わず、二人に射抜くような視線を向けて言った。

「私を宗主の所へ連れて行け」

二人の動きがぱたりと止まる。
蛇が鎌首をもたげるように、揃って首をぐにゃりと動かしながら
二人は言った。
「お前は」
「宗主様に」
「呼ばれておらぬ」

「宗主の都合など聞いてはいない。
私が宗主…いや、安倍晴源に用があるのだ」

泰明が手を離すと、二人の老人はくるりと回ってから
並んでふわふわと宙に浮かんだ。

「おお…今分かりましたぞ」
「ご無礼の段、お許し下さい」
「あなた様は、地の玄武殿」

泰明の表情は、ぴくりとも動かない。
対して二人の顔には満面の笑みが浮かび、
大きく開いた口が耳の付け根まで裂けてぱくぱくと動いた。

「では、あなた様をお連れしましょうぞ」
「宗主様の元へ…と」



続く





―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時  2.草庵  3.分断  5.傷心  6.式神
7.前夜  8.心を映すもの  9.雷雲  10.惨劇  11.(わか)
12.雨の後  13.岐路  14.散滅  15.予兆
16.逃走  17.行方

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2009.10.24  筆