花の還る場所  第二部

5.傷 心


さわさわと叢竹を鳴らして風が吹きすぎる。
嵯峨野の奥にひっそりと建つ古びた草庵は、
主を亡くしてそれほどの時も経たぬというのに、まるで廃屋のようだ。

枯れた木と土の色に囲まれた部屋の中、
うち捨てられたままの小さな弥陀像の前で、
あどけなさの残る少女がむせび泣いていた。
その隣で、悲しげな眼をした若い男が、
おずおずと少女の髪を撫でながら、
嗚咽の合間に語られる言葉に耳を傾けている。

「内裏は…帝のおわす雲上の世界。
美しく着飾ったお姫様や高貴な公達…雅な遊び…凛々しい武官。
そこでお姉さまも、中の君様とご一緒に楽しく暮らしていらっしゃるのだと
私は心に思い描いておりました」

男の眼に静かに浮かんだ悔恨の色に、少女は気づかない。

「大好きなお姉さまが手の届かない所へ行ってしまって
私はとても淋しかったのです。
でもその分、お姉さまは幸せなのだと…信じていました」

「あなたは、心優しいのですね。
ご自身の淋しさを、あの方の幸福を願うことで癒やすことができたのですから」

「いいえ…お姉さまの幸せを祈っても、まだ私は淋しかったのです。
心の底では、私を置いて行ってしまったことを、恨んでいたのかもしれません。
肉親といえば、お姉さまただ一人。
中の君様の御屋敷に一人残されて初めて、
私は自分が今まで、どれほどお姉さまに助けられていたのか知りました。

「御屋敷のお勤めは辛かったのですか」

頷きかけて、少女は慌てて小さく頭を振った。
「中の君様の父君は、とてもお優しい方でした。
中の君様のために姉さまを内裏に入れたことで
私がひとりぼっちになってしまったことを気遣って、
お側近くで私を使って下さいました。
何か失敗をしても、古参の女房の方達に取りなして下さったり。
けれど…」

「おいたわしいことです。更衣様の父君は昨年身罷られたとか」

「はい…。それから少しずつ、何もかもが悪い方へと向かっていきました。
そしてとうとう…」

少女の言葉は嗚咽に飲み込まれた。
庭先に下り来た烏が、所在なげに二度三度跳びはねると、そのまま飛び去った。
袖を眼に当てたまま、少女はぽつりと言う。
「…信じられませんでした。
更衣様が濡れ衣を着せられて、内裏を追われるなんて。
そしてお姉さまも……あんなことに…」

「辛いことを思い出させてしまいました…」
「いいえ、思い出すためにここに来たのですもの。
けれど、お姉さまのことをお話できる方と
このようにお会いできるなんて…」

少女は、隣にひっそりと座す男を見上げた。
背に長く垂らした黒髪、女のように白く整った顔立ち、
悲しみの色をたたえた切れ長の眼、
戸惑ったようにこちらを見つめる表情。
悲しみの底にいるのに、心の奥がざわめく。

「あなたは、なぜお姉さまをご存知なのですか?
この草庵は、お姉さまが更衣様と一緒に隠れ住んでいたところ。
御屋敷の者より他に、ここを知る人はいないと思っていました」

赤い唇が震えたのは、答える言葉を探しあぐねたからだろうか。

少女は言葉を続けた。
「お姉さま様を知るお方…
あなたは誰なのですか? どこからいらしたのですか?」

吐息のような言葉を、震える唇が紡いだ。
「化野をさまよい歩き、声を嗄らして呼び続けても、
転がる屍は何一つ答えてはくれませんでした。
朽ちた躯は地に還るのか、宿るあてのない魂は、どこかへ漂い出たのか…
それとも主の命と共に露のごとく消えていったのか」

男の発した身を切られるが如き悲痛な声に、
泣いているのだろうか…、と少女は思った。
だが、その瞳に涙はない。

その時、風の向きが変わった。
騒がしい声が風に乗って聞こえてくる。

「どうにも陰気な所じゃ」
「こんな所に女を住まわせようなど、主殿もひどい男よのう」
「女もいやがるだろうよ。ここでは足が遠のくに決まっている」
「仕方あるまい。何しろ…」
「止めておけ。主の事情なんぞ俺達には関係ないことだ。
それより、建物は夏を越して荒れ放題になっているはず。
日のあるうちにできるだけ働いてもらうぞ」
続いて、大儀そうな返事の声。

声の主達は、この草庵へと続く道を上がってくるようだ。

少女の顔が蒼白になっている。
ひどく怯えたその様子に、男は問うた。
「更衣様の御屋敷の人達ですか?」
こくりと少女は頷く。
「会いたくないのですね」
再びこくりと頷き、少女は男の両袖をぎゅっと掴んだ。
「私、お屋敷を逃げ出してきたのです。
見つかったら連れ戻されてしまいます」

男はさすがに驚いたようだ。
「戻らない? ではその後はどうするおつもりだったのです」

少女の顔が歪んだ。
「ここで…お姉さまの元へ…行こうと…
でも、あの人達が来たら……もう」

男は初めて、感情を露わにした。
声を抑えたまま、激しく言う。
「あなたが後を追って、あの方が喜ぶと思うのか!」
「だったら私は…どうすれば……」

男と少女の視線がぶつかり合う。
陽が陰り、風がごうごうと渦巻いて山を駆け上がった。
少女が何かを懇願し、男が何かを答えた。

風が止み、男達が草庵の柴折り戸を開いた時には、
そこには誰もいなかった。

その頃男は少女を背負い、破れた垣を跳び越えて、
薄い陽の射す林の中を走っていた。
少女は男の背に顔を埋め、
初めて感じる安らぎに心を委ねていた。
幸せであった。
あの時は……。



ぐらりとよろけ、手にした杖と共に地に倒れて、
女の追憶はそこで途切れた。

山間の細道は森閑として人の気配もない。
枯れ木のように痩せた女は、杖にすがってよろよろと立ち上がる。
病なのか、あるいは傷でも負っているのか、
呼吸は荒く、力を振り絞っては次の足を踏み出す。
蒼白な顔に汗が滲むが、それを拭うために腕を動かすことさえ難儀な様子だ。
それでも気が急いているのか、ここまで休むことなく歩き続けてきたのだった。

朝方、村を出ようとした女を、村人たちは懸命に引き留めた。
「おや、誰かと思えばササネじゃないか。もう起きていいのかい?」
「そんな身体でどこに行くんだね?」
「京へ? 浅茅は立派にやってるって、この前文が届いたばかりじゃないか」
「およしよ、そんなじゃ京に着く前に行き倒れちまうよ」
「莫迦だねえ。あんたに何かあったら、悲しむのは浅茅なんだよ」

彼らに感謝しつつ何度も頭を下げ、それでも女は村を出た。
二度とここには帰ってこられないかもしれない…と
確信に近いものを感じながら。


――あの人は、浅茅の居場所を知ってしまった。

京にいる浅茅から嬉しい文が届いた夜、
あの人は突然現れた。
そして……

女の身体が軋んでいる。

目に見えぬ力で壁に叩きつけられ、そのまま下に落とされて
浅茅からの文を奪われた。

あれが…あの人の本当の力なのだろうか。
かつて悲しみをたたえていた瞳は、怖ろしい闇の裂け目に変わっていた。


あの草庵で……山を鳴らす風に心を千切られそうで…
私はあの人に懇願した。
『私を一緒に連れて行って下さい』

『……私は行く当てもない穢れた身です。
そして今は、何の力も持っていません』

その暗く苦い言葉の意味を、あの時の私は深く考えることさえしなかった。

『それでもいいのです…。どうか…』

私を見つめ、あの人が小さく呟いたのはお姉さまの名。
そして……言ったのだ。
『この心のある限り…私はあなたを守ります』

あの人の「心」はもう――失われてしまったのだろうか。

幼い浅茅を慈しみながらも、
自分はここにいてはいけないのだと、
諦念の笑みと共に去っていったあの人の心は、
どこにも残っていないのだろうか。

私は今、幼い愚かさの報いを受けている。
それを我が身に受けるのは当然のこと。
愚かであっても、刹那の想いは真実だった。

でも浅茅に罪はない。
あの人が何のために浅茅を訪ねてきたのか、
浅茅に何をしようとしているのか、私には分からない。

遅すぎるのかもしれない。
それでも、私は行かなければならない。
京へ……我が子のもとへ。






闇の向こうに、篝火が踊っている。

ごつごつと当たる足元の岩が、緩やかな下り坂から急な斜面に変わった。
とぐろを巻くように回り込みながら、足場は篝火へと続いている。

篝火の前には、真っ直ぐに立つ人の影。
炎に浮かび上がる輪郭は、ほっそりとした男のものだ。
風の吹かぬ洞窟の中というのに、長い髪がなびき、装束の袖が揺れている。

前を行く二人の老人が空中で止まった。
そして泰明の心を読んだように、しゃがれた声で言う。
「そうじゃ。あそこにおわすのが」
「宗主様じゃ」
ふわふわと左右に分かれて振り返り、老人達は両の手を上げた。
「粗相の無いよう」
「ご挨拶なさるがよい」

宗主が顔を上げ、泰明を見た。

その刹那、泰明は足場から斜め下に身を投げ出すように飛ぶ。
同時に、先ほどいた場所の岩が粉々に砕け散った。
粉砕された岩が、砂煙となって降り注ぐ。

「宗主様の気をかわすとは」
「さすがは地の玄武…いや、造化のモノ」
哄笑を残し、老人達は宗主の元へふわふわと飛んでいく。

いきなり攻撃が来るであろうことは、
老人達が左右に分かれた時に察しがついていた。
だが今のは単に、こちらの力を見ただけだろう。
本当の攻撃は次だ。

ここには、身を隠せるだけの大きな岩も裂け目もない。
宗主は最前の姿勢を崩すこともなく、
斜面の中腹に身をさらしたままの泰明を見ている。

しかし篝火を背にした宗主にも、泰明の眼から隠れる場所はない。

ぎりぎりぎり…と気が張り詰め、暗い空間を満たしていく。
それが爆発しようとした瞬間、
宗主が柔らかな声を発した。

「まだお前は壊さぬ。
こちらへ来るがいい、晴明の造りしモノよ」



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―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時  2.草庵  3.分断  4.護法  6.式神
7.前夜  8.心を映すもの  9.雷雲  10.惨劇  11.(わか)
12.雨の後  13.岐路  14.散滅  15.予兆
16.逃走  17.行方

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前半の浅茅くん母パートは、回想と現在のモノローグが混在しています。
分かりにくかったらごめんなさい。
で後半は、短いですが主役登場♪
泰明さん、がむばれ!なのです。



2009.11.08  筆