一歩また一歩と、怨霊をまとわりつかせたまま、
晴源は御堂の一隅に向かい、暗闇の中を這いずるように進む。
怨霊に覆われたその姿は、人とは思えぬ忌まわしき形。
息のある者は、皆ひいと悲鳴を上げて逃げようともがいた。
行って何とする
晴源は歩を止めた。
何かが、身の内で響いたのだ。
声ではなかった。
言の葉と思ったのは、気のせいか。
近づけば瘴気で死ぬ
言の葉の形を借りた、意の表出。
そうだ…。
このまま近づいたなら、怨霊の瘴気があの人の命を奪う。
「ひいいい」
闇から現れた晴源を目にした傷だらけの老僧が、
まろびながら必死で逃げていく。
その時、尼僧のいる方から、かすかに身じろぎする気配がした。
生きている!
怨霊に憑かれてままならぬ動きの腕を上げ、小さな灯りを宙に浮かべる。
しかし希望はすぐに絶望へと取って代わった。
尼僧の墨染めの衣は引き裂かれ、濡れたようなしみが大きく広がっている。
床に流れるものが何かは、自ずと分かる。
その後ろに倒れている中の君は、すでに息をしていない。
助けられなかった……。
ずっと側にいたのに……。
何もできなかった……。
あの人は今、痛いのだろうか。
怖ろしいのだろうか。
苦しいのだろうか。
尼僧がうっすらと眼を開いた。
と、血の気の失せた白い顔に微笑みが浮かぶ。
淡い灯りの中、尼僧は真っ直ぐに晴源を見ている。
どうしたのだ…。
この姿を見て、あの人は怖れないのか…?
尼僧の唇が微笑みの形のまま動いた。
「せい…げん…ど…の」
視界が、滲んだ。
分かるのか……私が…分かるのか……。
あのように傷つきながら
このような姿の私を見て…
あなたは微笑むのか………。
尼僧はゆっくりと眼を閉じていく。
一人で逝ってはいけない!
私はここにいる。
こんなに近くにいる。
別れの言葉もないまま
あなたを見送ることしかできないのか…。
終の別れを欲するならば
再び「声」が響いた。
お前は何だ!
私の中から出て行け!
魂魄を差し出すがいい
怨霊を消してやろう
晴源の胸に怒りがこみ上げる。
やつらを操っているのはお前か!
ならばすぐに消し去れ!
命令は受けぬ
その「声」と同時に、尼僧の後ろに巨大な怨霊が立ち現れた。
がちがちと鳴る牙を、白い喉元に近づけていく。
止めろ!!
答えよ
力なく横たわる尼僧を、晴源は凝視している。
答えは……抗いようもなく、ただ一つ。
それは即ち、後戻りできない一歩をさらに踏み出すこと。
だが魂魄を失ったなら、もう過ちを冒すことはない。
失うものは己自身。
引き替えに、この御堂の惨劇の中、
まだ息のある幾ばくかの人々が命を長らえる。
そして私は、あの人を看取ることができる。
永訣の痛みは、私の中から消えていくのだろうか…。
晴源は答えを口にした。
それが、長きに渡る罪の連鎖の始まりの瞬間であった。
見る間に怨霊が消え、瘴気が薄らいでいく。
晴源は尼僧の元に跪いた。
その胸は、まだわずかに上下しているが、
命の灯火は消えかけ、もう撫で物も祓えも効かぬことは明らかだ。
遠慮がちにそっと呼びかけると、尼僧は再び眼を開いた。
晴源を見つめる大きな瞳に、かすかに光が宿る。
「お別…れです…」
かすれた声と共に、尼僧の手が動いた。
冷え切ったその手を、握りしめる。
何を語ればよいのか、分からない。
別れ行くこの人に、己の無力を詫びる以外に、何を言えばよいのか。
愛しい人を守ることすらできなかった男が、
去りゆく人に向かい、何を語るというのか。
熱い涙が晴源の頬を伝い、握りしめた尼僧の手にしたたり落ちた。
尼僧の唇が小さく動き、か細い声を絞り出す。
「泣か…ないで。……悪いのは…私。
あなたの心を知り…ながら、応えなかった私を…許してください」
約束だ
お前の魂魄を貰い受ける
まだだ!
未練
女はもう終わりだ
晴源の中に、凍てつく闇が這い上ってくる。
体内へ入り込もうと、無数の楔を容赦なく突き立てる。
身を削られる痛み。
まだだと言っている!
渾身の覇気が、闇を弾き飛ばす。
「あなたに…触れたい」
青い影の落ちた顔にただ一つ、淡い色の残る唇が少し動き、
微笑みの形になった。
身を屈め顔を寄せ、冷たい頬に手を置くと、
伏せた睫毛から一筋流れ出た涙が、指を濡らした。
そっと唇を重ねる。
刹那の時間。
指先がかすかに動いて、弱々しく握り返した。
「苦しいのですか」
顔を離して問うと、うっすらと眼が開いた。
「ありが…と……」
小さな微笑みを浮かべたまま再び眼を閉じ、深い息を吐き、
それが永遠の別れのしるしであった。
慟哭の声が、喉元を掴まれて止まる。
眼に見えぬ冷たい何かが、晴源の全身にひたりと取り憑いている。
終わったのだ
女もお前の「時」も
ああ…そうだ。
逆らうことは許されぬ
この人のために泣くこともできないのか。
お前はもう何もできない
暗転
ざりざりと身の内が削られていく。
痛みはいつしか感じなくなっていた。
心が閉じていく。
消えゆく意識の残滓の中で、帰らぬ日々を繰り返し思う。
思い出してはならぬ
心の内で、己に命ずる声がする。
遠ざかる。
全てが。
悲しみも愛しさも苦しみも悔恨も怒りも惑いも祈りもぬくもりも
ぼろぼろと削げ落ちる。
闇の中に墜ちていく。
私は…虚ろなる無となるのか。
心ではなく身体でもなく意識ですらなく、
晴源なる存在が最期に紡ぎ出した言の葉が、
虚無の中に散りかけた。
その刹那、眩い光が闇をかき消した。
満ちあふれた光を受け、
千切れた意識が再び集まり、形を為す。
「………」
音が蘇り、祓えの呪を唱える懐かしくも力強い声を聞く。
「御師匠…様…?」
意識と視覚が焦点を結び、現実の世界が蘇った。
「忌まわしきもの、我が弟子から離れよ!」
その言葉と共に、凄まじい気の波動が地を撃ち、天を穿つ。
眼を開いた晴源が見たのは、
己の身体から涌き出た闇と、己が師匠、安倍晴明との死闘であった。
―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時
2.草庵
3.分断
4.護法
5.傷心
6.式神
7.前夜
8.心を映すもの
9.雷雲
10.惨劇
12.雨の後
13.岐路
14.散滅
15.予兆
16.逃走
17.行方
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2010.02.05 筆