その日……
法会の行われている寺の広い御堂には、
蒸し暑い空気がねっとりと澱んでいた。
遠くの空から聞こえていた腹の底に響くようなごろごろという音が、
次第に近づいてくる。
集まった人々は、高僧のありがたい説法などどこへやら、一様に落ち着かな気だ。
――ひどい降りになる前に帰りたいものだが、
まだ当分終わりそうにないのう。
――ああ、息苦しいこと。
早く帰りたいですわ。
――ひと雨来て涼しくなるのはよいが、
帰りの道はひどいぬかるみになるのじゃろうな。
――ご祈祷はともかく、お説教は別の方がなさればよかったのに。
せっかくの法会なんですもの。
もっと若くて声と姿のよい僧をお呼びすべきでしたわね。
年若い二人の尼僧が端に座し、
無心に手を合わせているが、目を止める者は誰もいない。
御堂の外でも、どこか落ち着かない空気は同じこと。
警護の武士は空を眺めては腰の刀を確かめ、あてもなく歩き回っている。
牛飼い童は、さかんに鳴き立てる牛をなだめるのに大忙しだ。
――この気は…何だ。
草庵で感じていた不安が、耐え難いほどに強くなっている。
正体の分からぬ何かが、今にも現出しようとしているのか。
晴源は、凄まじい速さで近づいてくる黒雲を見た。
禍々しい稲妻が間断なく閃いている。
雷鳴の轟きに呼応するかのように、地の底もごろごろと鳴る。
幾度施しても、御堂の結界はすぐに弱まり、
乾いた砂で作ったかのように崩れてしまう。
黒雲が寺院の上空に達する直前、木々から鳥が一斉に飛び立った。
空を旋回する余裕もないのか、
一羽残らず、明るさの残る方角を目指して我先にと飛んでいく。
凶兆……。
冷たい風が吹き抜け、空が夜のように暗くなった。
牛が暴れ騒ぐ。
「松明を!」
「篝火を焚け!」
耳をつんざく雷鳴と同時に、御堂を雷が貫いた。
一瞬の閃光に続いて来たものは、漆黒の闇と叩きつける豪雨。
大地がふくれ上がり、そこかしこで瘴気を吹き出す。
ぐおん…と御堂が揺れた。
その中から漏れ出るのは、絶叫、悲鳴、喚き声、そして、濃密な瘴気。
怨霊が、御堂の外ではなく内部に出現したのだ。
御堂の屋根に火の手が上がった。
黒く煤けた炎の色が闇に浮かぶ。
雷撃に倒れた者達が、寺院の庭のそこかしこに転がっている。
暗闇に右往左往していた者達は、唯一の光源を頼りに御堂に駆け寄る。
しかしそれより早く、晴源は行動を起こしていた。
すでに御堂の前に来ている。
だが重い扉が、がたりとも動かない。
「陰陽師! 警護は我らが役目ぞ!」
扉に向かって走ってくる武士に背を向けたまま、晴源は叫んだ。
「来るな! 中には怨霊がいる!」
扉に両の掌を当て、気を送り込むと、周囲の壁と共に扉は四散した。
そのまま中に駆け込んでいく。
「怨霊などに臆すると思うか!」
「武士を侮るな!」
「うっ…」
「こ…これは…」
続いて御堂に入った武士達が、一様に絶句する。
と見る間に、胸をかきむしって苦しみ出し、
皆その場に次々と倒れ伏した。
御堂の暗闇の中では、惨劇が繰り広げられていた。
黒い炎は雨に打たれても勢いが衰えない。
高い天井を炎が嘗め、ぼとりぼとりと落ちる雨の雫は、
黒い塊となり怨霊へと変じて人々を襲っている。
雷に貫かれた床からも炎が吹き出し、
ぼこりと開いた穴から、怨霊が涌き出てくる。
すでに事切れた者、瘴気にもがき苦しむ者。
誰にも容赦なく、怨霊は爪を振り下ろし、牙を突き立てていく。
「何と…酷いことを…」
晴源の身の内が冷えていく。
あの人は…どこだ…。
渦巻く瘴気のただ中に立ち、晴源は祓えの呪を唱えた。
しかし、瘴気が薄らぐのは一瞬のこと。
すぐにまた、御堂の中は濃密な瘴気で覆われていく。
怨霊が涌き出てくる限り、この瘴気はなくならない。
晴源は暗闇を透かして周囲を見回した。
その力のほどを察してか、怨霊共は晴源には近づこうとしない。
――こやつらを一気に蹴散らせれば…。
晴源は唇を噛む。
一番簡単な方法が、ここではできない。
思い切り力を振るえば、怨霊は殲滅できる。だが御堂をも粉微塵にしてしまうだろう。
まだ息のある人達まで、巻き添えになってしまう。
師匠である晴明の施してくれた縛めの呪は、
出奔した日に沼地で怨霊と戦った時に破ったまま。
今の晴源には、敵を撃つ術を制御することができないのだ。
怨霊を縛することすら憚られる。
全ての怨霊を呪縛するほどの力で撃ったなら、人の息の根を止めてしまうだろう。
だが、手をこまねいていることもできない。
晴源が動くにつれ、怨霊も晴源を避けて逃げる。
それを利用して、倒れた人を見つけては、扉の近くまで引きずっていく。
――こうして一人ずつ、助けるしかないのか。
縛することなく、怨霊の動きを止められれば…。
そうだ……!
晴源は呪符を取り出し、空中に投げ上げた。
桔梗印の形をした炎の帯が、御堂の中を眩く照らし出す。
「グギ…」
「ギギ…ギ」
蠢いていた怨霊が、浄めの光を受けて一斉に動きを止めた。
「いいぞ、陰陽師!」
「がんばってください〜〜」
御堂の外で震えている者達が、歓声を上げる。
しかしその声は、再度の落雷にかき消された。
ぷすり……
雷に御堂が震えると同時に空中の桔梗印も消え、闇が戻る。
しかし束の間の光の中で、
晴源は御堂の隅に倒れた二人の尼僧の姿を見ていた。
その残像が、暗闇の向こうへと晴源をたぐり寄せる。
何匹もの怨霊が、二人に迫っていた。
寸刻の猶予もない。
晴源は深く息を吐き出すと、漆黒の闇に腕を伸ばした。
「来い! お前達の餌はここにいる!!」
「グギギギギィッ!」
「ギュイイッ!」
「ギイギイギイ!」
堂宇に満ちた怨霊がズルズルと動き出した。
一匹残らず、晴源目がけて引き寄せられているのだ。
――これなら、力を加減する必要などない。
引き寄せられた怨霊は晴源を喰らおうとするが
薄い皮膜のような結界に阻まれて何もできない。
――やつらを全てこの身に引きつけたなら、
ここから離れて一気に片を付ける。
出口に向かって歩を進めたその時、
晴源は我が身の中に入り込んでくる怨霊の存在を感じた。
驚愕と恐怖に、足が震える。
怨霊が感じている生々しい感触を、
晴源は己自身のものとして感じている。
爪から滴る赤い血。
怨霊の目に映っていたものは、年若き二人の尼僧。
獣のような叫び声が、晴源の喉からほとばしり出た。
―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時
2.草庵
3.分断
4.護法
5.傷心
6.式神
7.前夜
8.心を映すもの
9.雷雲
11.
12.雨の後
13.岐路
14.散滅
15.予兆
16.逃走
17.行方
[花の還る場所・目次へ]
[小説トップへ]
2010.02.05 筆