花の還る場所  第三部

12.雨の後


あかね達が安倍の屋敷に着くのと時を同じくして、
黒く垂れ込めた空から大粒の雨が落ちてきた。
木々の葉が雨に打たれる音を聞きながら、屋敷の奥へと案内される。
一足進む毎に雨は激しくなり、周囲はみるみるうちに暗くなっていく。
先導役の若い陰陽師のかかげる手燭が辺りをうすぼんやりと照らすが、
視界は雨の帳に隠されて、庭の水たまりの境界も定かならず、
まるで広い池のように思えるほど。

一行を案内した陰陽師は、すぐにその場を下がった。
晴明の居室の扉が、触れる者もいないのに静かに閉じる。
雷鳴と豪雨の音で、部屋の中の音は聞こえない。
もとより、晴明の張った結界に守られた部屋から、
会話が不用心に漏れるはずもないのだが。

端座して待っていた晴明に向かい、あかね達は土御門での経緯と、
それまでに起きたことの顛末を、それぞれの視点で話した。
晴明は厳しい顔で黙したまま、じっと耳を傾ける。
そして皆の話が終わると、静かに口を開いた。
「これまでのこと、あい分かった。
神子殿、そして八葉の方々よ、心して聞いて頂きたい。
土御門の事件は、これから京に起きるであろう禍事の端緒であろう。
その背後に、人ならぬものの意志が働いていることは疑いようもない」

「泰明さんの言っていた晴源という人と関係があるのでしょうか?」
あかねの問いに、晴明は絞り出すような声で言った。
「安倍晴源は、人であって人に非ず。
闇に喰われ、人の形をとりながら邪と成り果てた者じゃ」
暗い室内に一つだけ灯した燈台の火が、晴明の顔に深い影を落として揺れている。
「どういう…ことでしょうか」

あかねが怪訝な顔をするのも無理はない。
晴明がその場の一人一人を凝視すると、揺るがぬ眼が、鋭い視線を受け止めた。

晴明は深く息を吐き、かすかに苦渋を含んだ声で話し始める。
「晴源とは、やがて対峙する時が来るはず。
その時のために、全てお話ししましょうぞ――」

そして雷雲が通り過ぎ、雨脚の弱まった頃……

晴明は、かつての愛弟子にまつわる過去の出来事を語り終えた。
「かようにして、晴源は邪悪なるものに自らを差し出した。
その愚かさの罪、贖うことはできぬ」

雨音の満ちる部屋の中で皆、声もなく、その悲劇の経緯を噛みしめている。
一番後ろに控えた頼久は、膝に置いた拳を握りしめ、
イノリは何もない壁をにらみつけて、かりっと爪を噛んだ。
鷹通は沈痛な面持ちで視線を落とし、
友雅は顎に手を当てて、何やら考え込んでいる。
あかねと永泉は、頬の涙を袖で拭っていた

「だが…愚かさという罪を犯したのは、この晴明も同じ」
再び口を開いた晴明の声には、歳月の重さが滲む。
あかねの問うような眼差しを受け、晴明は言葉を続けた。
「地の底より涌き出した闇が欲したのは、人の形。
それが人並み外れた陰陽師なれば、さらに強大な力を得よう。
許してはならなかったのじゃ。晴源が生き続けることを」
「そんな…」
あかねが、掠れた声を出した。

「取り憑いた闇を引き剥がし調伏してもなお、
晴源の魂魄の底に沈んだ闇までも滅することはできなかった。
だが、晴源の力を求めて取り憑いたものなれば、
力を使わぬ限り、それが現出することもない。
ゆえに、二度と陰陽の力を使えぬよう深く強い呪縛で縛め、
安倍家から破門したのじゃ」
ここまで語って、晴明はしばし瞑目した。
「世に満ちる悪鬼怨霊、人の生み出す怨念呪詛、魑魅魍魎を撃つが我が役目。
だが……人の心を、人なる身が裁けようか」

「晴源殿…どれほどお辛かったことでしょうか」
「その後のことは、何かお分かりですか」
晴明はゆっくりと頭を振った。
「晴源は、その身一つでこの屋敷から去り、
昨年の冬までは、文もなく噂を聞くこともなく、行方は知れぬままであった。
いや、五年ほど前まで生きていた…ということは分かっていたが」

それまで黙って爪を噛んでいたイノリが、
暗い雰囲気を振り払うように言った。
「昔のことに引きずられてたら、何もできないぜ。
とにかく今は、晴源ってヤツは悪いことしてるんだ。
そいつが宗主なのは間違いないんだろ? だったら話は簡単じゃん」
そして、拳をぐっと突き出す。
「ダマされてるみんなに、本当のことを話すんだ。
それから、宗主の所に行って、二度と悪いことができないように……」
そこでイノリは眼をぱちくりして言葉を切った。
「あれ? 何だよ、みんな難しそうな顔して」

鷹通が、隣の友雅に向き直った。
「宗主なる者が為しているのは、許すまじきこと。
さらには陰で何か企んでいることは、明らかです。
けれど残念ながら、捕らえるに足る証拠は皆無に等しい、とも思うのです。
検非違使庁に訴え出たとして、私が荘園での一件を証言しても、
妖しげな老人達に宗主と呼ばれていた者と
大津の宗主が同一人物であるとは証明できません。
さらにそれが晴明殿のかつての高弟であり、人外の力を振るう者…となると
話はもっと信じ難いものになる、と言わざるを得ないのではないでしょうか」

友雅は眉を上げて答えた。
「鷹通は賢いね。私の代わりに左近衛府に来てはくれまいか?」
「友雅殿、このような時にご冗談はお止め下さい」
「そうだぞ、友雅。一緒にヤツを止める方法を考えようぜ」

長い髪の一房を指先に絡めながら、友雅は小さく肩をすくめた。
「これでも先ほどから真面目に考えているつもりなのだが、イノリも鷹通も手厳しいね」
そして真顔になって続ける。
「検非違使庁は、まず間違いなく動かないよ。
しかし、それよりも問題なのは内裏の方だね」

永泉が憂い顔で口元に手を当てた。
「イノリ殿、大津の宗主は右大臣殿という後ろ盾を得て、
内裏にまで勢力を広げています。
多くの貴族が心酔しているという噂も聞き及んでおります。
左大臣殿が伏せられている今、朝儀は右大臣殿が仕切られているとのこと。
宗主がよからぬことを企てているとお話ししても、聞いていただけるとは…とても」

イノリの声が大きくなる。
「何だよ、それって。強いヤツの前では黙ってろってのかよ。
襲芳舎の更衣って人は、嘘の証言で内裏を追われたんだろう?
井戸に呪詛を仕掛けた、なんていうとんでもねえことが信じられたのに、
みんなが見た疫神のことは信じてもらえないっていうのか?」

あかねが大きく頷いた。
「イノリくんの言うとおりだと思う。
何もしないでいたら、何も変えられないもの。
とにかく私、宗主っていう人に会いに行きま」
「神子殿!」
「ダメに決まってるだろ!」
「お止め下さい!」
「それだけは思いとどまってほしいね」
「き…危険すぎます」
皆が一斉にあかねを止める。

――神子と八葉との間に結ばれた絆は、
務めを終えた今でも、人と人との絆となって、こうして生き続けているのか。

これまでのやりとりを黙って聞いていた晴明は、
きょとんとしているあかねの様子に微かに頬を緩めたが、すぐに厳しい表情に戻った。

しかし、神子と八葉という役目は本当に終わったのだろうか。
龍の宝玉に生じた異変は、京に起こる凶事の前触れ。
期せずして八葉が一堂に会したことも、偶然ではあるまい。

部屋に一瞬の静寂が訪れ、雨音がいつの間にか消えていることに気づく。

晴明は顔を上げ、右の手を少し動かした。
蔀が一斉に開き、外気が流れ込んでくる。
雨上がりの、しっとりと湿った夕風が吹き渡った。
緊張感に充ち満ちていた皆の顔が、少しだけ安らぐ。

話が途切れる間を見計らっていた頼久が、
「畏れながら…伺いたきことがございます。よろしいでしょうか」
片手を床につき、控えめながらも真剣な声で問うた。
晴明が無言で頷くと、頼久は一礼してから口を開く。
「晴源殿に取り憑いたものの正体とは、いかなるものでしょう。
この頼久、剣を取って戦うことを微塵も恐れてはおりません。
が、対峙する相手の本質を見定めてこそ、勝機も見いだせるかと存じます」

「ちょうど私も、同じことを思っていたところです」
鷹通が頼久に向かって頷き、晴明に向き直る。
「他にも、解せないことが多いのです。
晴源殿と大津の宗主が同一人物であると断定するには、
年齢が違いすぎるのではないでしょうか。
また、安倍家で修行した晴源殿は、大津の陰陽師とは何の繋がりもなかったはず。
それにも関わらず、宗主と名乗っていることも不可解です」

「鷹通、お前ってアタマいいなあ。
あかね、お前は座ってなきゃだめだ」
そわそわと腰を浮かせかけたあかねを、イノリが制する。
「でも、雨も止んだし…泰明さんを」

晴明はあたたかな微笑をあかねに向けた。
「神子殿、先ほど蔀を開いたのは何のためかお分かりだろうか」
一瞬戸惑った顔をしたあかねだが、やがて頬に明るい色が射した。
晴明は小さく頷く。
「雨が止めば、空中の水気に乱されることなく龍脈の流れを追える。
四方に送り出した式神が、今、泰明を探しておりますぞ」

――そしておそらくは、浅茅もまた龍穴の一つに捕らわれているのだろう。
晴明は、蔀の向こう、夜へと傾いてゆく空を遠く眺めた。





激しい雨に降り籠められていたと覚しき男女の二人連れが、
京の街へと続く道を急いでいる。
男の方はひょろりとした長身に陰陽師の装束を纏い、
大きなお腹をかかえた女を、いたく気遣っているようだ。
暮れていく空を恨めしげに見やり、深いため息をつく。

「空を恨んでも仕方ありませんよ。
降る時は降る、暮れる時が来れば暮れるのが空のお勤めです」
お腹をさすりながら、女がきっぱりした口調で言った。
「は、はあ。その通りです。
その通りですが、また今夜も野宿ではお腹の子に障るかと」
はははと笑って、女は言った。
「陰陽師にも、得手不得手があるのですね。
あなたは占いが苦手なのだとよく分かりました。
これ以上良き日はない、と占ったのに、京への旅は困難続き」
「申し開きできません。京の近くまで来ているのが、せめてもの救いでしょうか」

そう言って頭を掻いた男が、道の脇の草むらを見てはっとする。
薄暗がりでも、すぐに分かる。
行き倒れの女だ。

「大丈夫ですかっ!?」
連れの女は、男の手を振りほどいて草の中に踏み込んだ。
「いけません!」
死んでいるなら穢れが移る。
息があっても、質の悪い病で倒れたのかもしれない。

しかし、男が安堵したことには、女はそのどちらでもなかった。
着物から覗く枯れ木のように細い手足には、無惨な打ち身の痕がある。
今日や昨日できたものではないが、治っているとは言い難い。
このようなひどい状態で旅に出たのだろうか。

「何と痛々しいこと…。
長任(ながとう)殿、すぐにお助けするのです」
「はい」
「よいお返事です」
「はいっ」

その時、女がうっすらと目を開いた。と、青白いその顔に驚愕の表情が浮かぶ。
女は力を振り絞って身を起こし、震える手で長任の袖を掴んだ。
「このご装束は……安倍の…陰陽師殿…?」

粗末な身なりをした行き倒れの女が、安倍家のことを知っている?
訝しく思いながらも、長任は頷く。

女の手の力が驚くほどに強くなった。
「お願いでございます!
どうか…どうか私を…安倍の御屋敷まで連れて行って下さいませ!
御屋敷には、私の子が…お世話になっているのです!」

「お子は、何という名だろうか?」
女は少し口ごもった。
「あなた様のように立派な陰陽師の方は…ご存知ないかもしれませんが…
私の子は…見習いの浅茅と申します」

浅茅の…母御。

長任は浅茅の母に向かい、にこっと笑ってみせた。
「ご心配召さるな。必ずや、お師匠様の御屋敷までお連れします」

しかし次の瞬間、長任の飄々とした顔が練達の陰陽師のそれとなる。
つと伸ばした手には、いつのまにか呪符があった。
見えない糸に引かれるように手から離れた…と見る間に
呪符は鷹の姿へと変じて飛び去った。

「何をされたのですか?」
大きなお腹を押さえながらよっこいしょと立ち上がり、
女が鷹の飛び行く先を眼で追っている。
「御屋敷に式神を打ちました。鷹ならば、暗くならぬうちに一条に着くでしょう。
この身体で子に会おうとは、ただならぬ理由があるに違いありません。
仔細をここで話してもらうより、
母御が御屋敷に向かっていることを報せた方がよいでしょう」

女は目をきらきらさせて長任を振り返った。
「今日は、良き日だったのですね。
こうして、浅茅の母御と出会えたのですもの。
それなのに、占いが苦手などと言って申し訳ありませんでした」
頭を下げて詫びの言葉を言い、女は小さな声で付け加える。
「惚れ直しました…長任殿」
「いや…そのような…照れくさいです。でも嬉しいです…嫁御殿」
長任は真っ赤になって頭を掻いた。



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―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時  2.草庵  3.分断  4.護法  5.傷心
6.式神  7.前夜  8.心を映すもの  9.雷雲  10.惨劇
11.(わか)  13.岐路  14.散滅  15.予兆
16.逃走  17.行方

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長任は「雪逢瀬」に登場した、
泰明の兄弟子、嫁さん大好き、取りなし役のオリキャラです。
名前の初出は確か 「雪逢瀬・4」だったかと…(←誰かこの記憶能力ゼロを何とかして)。


2010.02.15  筆