花の還る場所  第三部

16.逃 走


安倍の屋敷の門前で、馬が小さく嘶いた。
馬上には、青白い顔をした痩せた女と、手綱を握る男。
馬の傍らには、ひょろりと背の高い陰陽師装束の男と、お腹の大きい女がいる。
長任夫婦と浅茅の母、そして昼間、東の市に現れた京職の男だ。
奇妙な取り合わせだが、怪我人と妊婦を連れて長任が難渋していたところ、
偶然通りかかった京職の男が、助力を申し出てくれたのだ。

長任が門の内に声をかけようと近づくと、
誰もいないというのに、重い木の扉がゆっくり開いた。
「へえーっ! さすがに名高い安倍晴明殿の御屋敷だ。
噂には聞いていたが、この目で見るまでは信じられなかったぜ」
京職の男は感嘆の声を上げる。長任の妻も目を丸くして感心しきりだ。

だが長任は微かに眉を顰めた。
陰陽の術は人に見せつけるものではない、とは、晴明自身の言だ。
かつては鬼神に屋敷の門番をさせることもあったと聞くが、
その役目は、何年も前から人間が務めるようになっている。
しかし今扉を開いたのは、晴明の操る式神であった。
さらに門の内より、ぴりりと張り詰めた気も漂ってくる。
――何事かが起きたようだ。
浅茅の母御と関係があるのか…?

門をくぐった先には、小さな光が点々と道を照らしていた。
夜陰の中に浮かび上がる光の道は、緩やかに曲がりながら屋敷の奥へと続いている。
長任以外の三人は、妖しくも美しいその情景に息を呑んだ。

一方、晴明は長任達の到着と同時に式神に指示を出し、自らも席を立っていた。
「しばし、座を外しますぞ」
そう言い置いて、部屋を辞そうとした時だ。

あかねがはっと顔を上げた。
「泰明さん…」
晴明も、泰明が浅茅と共に門前に到着したことを知る。

しかし、浅茅の母と泰明、そして浅茅――
待ち人が相前後して屋敷に着いたと安堵する間はなかった。
突然、屋敷の外が、馬の蹄の音と武具の触れ合う音で騒がしくなったのだ。
晴明ばかりではなくその場の皆が、ものものしい気配を察知した。

頼久は反射的に剣の柄に手を置き、
友雅はくつろいだ姿勢から、足元を乱すことなく一挙動で立ち上がる。
「泰明さん!」
あかねが身を翻し、走り出した。
「待てよ!」
「迂闊に出てはなりません!」
その後を皆が追う。

門扉に近い長任には、外の様子が手に取るように分かった。
他の三人をその場に残し、自らは門まで引き返す。
しかし途中で、浅茅を連れた泰明とばったり出くわした。
浅茅の様子は、夜目にもひどい有様だ。
顔は泥だらけ、着物は袖が半分取れかけ、裾も襟も裂けている。

長任と泰明は、同時に言った。
「泰明、何があった!?」
「長任、浅茅をお師匠の所へ連れて行け」

噛み合わない言葉に構うことなく、
泰明は浅茅の背を長任に向かって押し出した。
当の浅茅は、安倍の屋敷に戻れたのも束の間、
いきなりまた騒ぎに遭遇して何が何やら分からず、
久々に会った長任の顔をきょとんとして見上げるばかり。

「何事かと聞いているんだ、泰明」
さすがの長任も、苛立ちを隠せない。
浅茅には、母が来ていることを真っ先に報せてやりたいのだが、
屋敷の前に武装した者達が集まっているとなれば、
まずそちらを何とかしなければならないのだ。

しかし泰明は「浅茅を頼む」とだけ言って、踵を返した。
「どこに行く」
「門の前で検非違使庁の者達が待っている。私に用があるそうだ。
浅茅をお師匠の元に連れて行ったら、すぐに戻ると言ってある」

その言葉に、長任は心底驚いた。
「泰明、お前、何をしたんだ」
「神泉苑に立ち入った」
「何だと? あそこは禁苑じゃないか。
昨年から閉じられていることを知らぬわけではあるまい」
「無論だ」
「何でまた」
「浅茅を助けるために仕方なかった」
「どういうことなんだ、分かるように話してくれ」
「話せば長くなる。もう行く」

しかし泰明が行きかけたその時、
「お前は出てはならぬ」
厳めしい声が暗闇から響いた。
濡れた地面を踏む足音がして、安倍晴明が姿を現す。

泰明は最も知りたいことを口にした。
「お師匠の式神、神子は無事か」
式神を操る晴明は苦笑し、式神もまた同じ表情をする。
「お前が戻ったことを知り、こちらに向かって走ってくる途中じゃ」
「神子を巻き込みたくない。しばし待つように言ってほしい」
式神はゆっくりと頭を振った。
「あやつらはお前を捕縛するつもりじゃ。しばしではすまぬ」
泰明は瞬きをし、小さく首を傾げる。
「お師匠、なぜそのようなことが分かるのだ」

式神は、声を低くして言った。
「泰明よ、お前の知る以上に、宗主の力は朝廷の内部にまで入り込んでおる。
お前が浅茅を連れ、神泉苑から出たのはほんの数刻前のこと。
検非違使庁の動きは早すぎると思わぬか。
陰陽の力を持たぬ者共とて、侮ってはならぬ」

「つまりこれは、宗主の意を受けてのこと、だというのか」
「そうじゃ。泰明よ、お前は確かに強い。
だがその力、陰陽の力を持たぬ者に対して、
情け容赦なく振るうことができるか」
「……神子を守るためならば、きっとできる」
「そうであろうな…泰明。お前はそのようにしか在ることができぬ」
「だがお師匠、私は好んで人を害することなどしない」
「好むと好まざるとに関わらず、そうせざると得なくなることを、
宗主は待っているのじゃ。そのために、力無き者達を盾とした。
お前は神子殿と無理矢理引き離されようとしたら、どうする」
「お師匠…私は…」
「お前を取り押さえることのできる者など、この京にはおらぬ。
おめおめと罠に飛び込んではならぬぞ、泰明。
さりとて、ここにいることもならぬ。
お前には、安倍家の外に出てこそ、できることがあるのじゃ」

「分かった、お師匠」
そう答えた刹那、泰明は屋敷の奥に顔を向けた。
「泰明さん!」
あかねの声が、闇の向こうで聞こえる。
夜陰の中、入り組んだ屋敷の庭を、
あかねは迷うことなく真っ直ぐに走ってきたのだ。

「泰明、早う行け」
静かな声で言うと、晴明の式神は泰明に背を向けた。
その後ろ姿に、泰明は言葉をかける。
「お師匠、私は神泉苑の祠を一つ、壊してしまった。
そのことは悪かったと思っている」
かすかな笑いを含んだ声で、式神は答えた。
「安倍家として誠意を尽くす」

泰明はあかねの元に駆け寄り、晴明の式神は門に向かい、
まだ状況が飲み込めないながらも、長任はきょとんとしたままの浅茅に
短い言葉を伝え、点々と灯る道の先を示した。





検非違使庁の役人といえど、安倍晴明の屋敷に踏み込むのは躊躇せざるを得ない。
比類なき陰陽師の館というばかりではなく、
晴明は昇殿を許された位階にある人物でもあるのだから。

別当を兼ねる参議より直々の下命があったのはつい先刻。
その命とは、禁苑を侵した者がいるゆえ、その者が苑を出て何処へ行くのか確かめ、
居所を突き止めた後に捕らえよ、との少々不可解なもの。
だが彼らは元より疑義を唱える立場にはない。

言われた通りに神泉苑を見張っていたところ
陰陽師の装束の男が、童と一緒に出てきたのをしかと確かめた。
総勢二十名を率いていた衛門尉は頭の回る男で、手勢を二つに分けて
一つを安倍家の屋敷に先回りさせていた。
そこまでは、よい。
しかし、相手は陰陽師。
尾行するはずの者達は、身を隠していたのにあっさりと気づかれ
あげくは「何か用か」とまで尋ねられ、仕方なく用向きを話す羽目となった。
しかし童を連れ仔細ありげな風であったが、陰陽師は正直に行き先を答えた。
そこで、途中で道を逸れて逃げたりしないよう、
目を離すことなく後をついてきたというわけだ。

勝手が違う役目を与えられ、どうにも落ち着かない一行の前に、
晴明の姿をした式神が現れた。
彼らには、式神と本人を区別などできず、
初めて目にする稀代の陰陽師の威厳に満ちた様子に、
気圧されまいとするのが精一杯。

式神を通して、晴明の声が朗々と響き渡った。
「突然に異な事を為されるものじゃ。
この屋敷を囲み、我が弟子を召し捕るならば、
まず主であるこの晴明に、理由を事分けて話して頂くが道理」





門に通じる中庭に、泰明とあかね、八葉の皆が集まっている。
泰明の帰りを待っていた、これまでの耐え難いほど長い時間が嘘のようだ。
屋敷を脱出する方法、その先のことについて、慌ただしく会話が行き交う。

ただ一点、揺るぎないのはあかねの気持ちだ。
「泰明さん、私も一緒に行きます」
そう言って、泰明の着物の袖をぎゅっと掴んで離さない。
泰明はその手を、そっと握り返す。

短い言葉が交わされた後、それまで黙ったまま武具の触れ合う音に
身を縮めていた永泉が、意を決したように進み出た。
「神子、泰明殿…どうか私の…」

その申し出に皆が驚く中、永泉はあかねと泰明に向かい、
精一杯きっぱり…と言い切った。
「たとえ呼び止められても、簾も物見も開けさせません。
私が、あの…その…断固として、お断りいたします」

その時、ふいに後ろから声がした。
「なあ、あんたらの話、聞こえていたんだが……」



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―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時  2.草庵  3.分断  4.護法  5.傷心
6.式神  7.前夜  8.心を映すもの  9.雷雲  10.惨劇
11.(わか)  12.雨の後  13.岐路  14.散滅  15.予兆  17.行方

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2010.03.21 筆