花の還る場所  第三部

15.予 兆


泰明さん…泰明さん……
早く戻ってきて。

じっと座っていることができなくて、あかねは部屋を出た。
顔を上げると、雨の上がった空にぽつりぽつりと星が見える。
夜風は少し涼しいだけなのに、なぜかとても寒い。

両腕を身体にきつく回し、震えそうになる自分を抑える。
後ろには、少し離れて頼久が控えている。
他のみんなも、あかねの気持ちを慮って、そっと部屋の中から見守ってくれている。

みんなをこれ以上心配させてはいけない……。

泰明さん――
絶え間なく襲い来る不安を、唇を噛みしめて耐える。

晴源の過去が明かされても、謎は依然謎のまま。
あかねの不安はいや増すばかりだ。
晴源に宿った人ならぬ力――それは人とは相容れないものではないのか、
泰明の比類なき力すら超越しているのではないのか…と。

――その底知れぬ力が、自分を襲った。
土御門での光景が、恐怖と共に蘇る。

私の代わりに、泰明さんが……。
しっかりと抱き留めてくれた腕の感触、
私を励ますように微笑んで、遠ざかっていった……。

喉にこみ上げる塊を、ぐっと飲み下す。
悲しいことばかり思い出して泣いていたら、だめだ。
落ち着いて考えてみよう。

なぜ、私が狙われたんだろう。

東の市でも、不思議なことがあった。
何かに取り憑かれたようだった男の人。
そして、小犬。
私が触れたら、悲鳴を上げて、黒い瘴気となって消えてしまった。
その時、何か言葉を言ったような……。
そうだ、確か「お前は、やはり」と言っていた。

やはり――という言葉は、何かを確認したことを意味するのだろうか。

私が秘していることといえば、龍神の神子だったということだけ。
そのことを確かめたというの?
それが確かめられたから、土御門で私を連れ去ろうとしたの?

一瞬だけ触れた、あの小犬…。
冷たかった……心まで凍るかと思うほどに。
けれど、その冷たさに驚くより先に、小犬は悲鳴を上げて瘴気を吹き出した。
私のこの手が、何かをしたのだろうか…。

自分の手に眼を落とし、
「めぐれ…天の声…」
小さく口の中で唱えてみる。
不可思議な力の奔流は、今はない。
龍神の神子の務めは終わったのだから。
私の手には…いいえ、私には何の力もないはず。

それなのに、なぜ小犬は?
それとも私には、まだ、龍神の神子としての務めが残されているのだろうか。





泣き疲れた浅茅の前に、いつの間にか白いくちなわが這い寄っていた。
淡い光を放つそれは、ゆらゆらと首を揺らして浅茅をじっと見ている。

ひりひりする眼で、浅茅はくちなわを見返した。
心のどこかが麻痺したようで、眼前のくちなわがひどく遠く思える。
驚きもなく、恐怖もない。

いきなり、くちなわが長い身体をぐるりと反転させた。
怨霊の残骸が、ぼこぼこぼこ…と動いたのだ。
が、浅茅の見ている前で、くちなわは大きな顎を開くと、
その残骸を丸ごと一呑みにしてしまう。

もぞり…
何かが浅茅に命じた。

ゆるゆると腕を上げ、くちなわに向ける。
――そうだ…こうやって、繋げればいいんだ…

掌に、もぞりと蠢くものから力が流れ込み、
浅茅の眼が闇色に染まっていく。
その手から放たれた気が、バチバチと火花を散らせてくちなわを撃った。

が、くちなわに届く直前、火花はあっけなく消える。
くちなわは赤い舌をちろりと出すと、その場にとぐろを巻いた。

同時に、壁の一部が消し飛ぶ。

――あの人…に…追いつかれた!?
浅茅の胸がズキンと疼く。

しかし土埃の中から聞こえてきたのは、あの柔らかく冷たい声ではなく、
場違いなほどに素っ気ない声だった。

「無事か、浅茅」

泰明の声が耳を打った刹那、浅茅の中で止まっていた感情があふれ出した。
「やす…あきさん…」
堰を切ったように、涸れていた涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「やすあきさん…ぼく…」
浅茅は声を上げて泣き出した。

が、そんな浅茅をよそに、泰明は怨霊の残骸に何かの呪を施し、
浅茅には分からぬ言の葉で、くちなわとやりとりをした。

それらを終えてから、再び素っ気ない調子で浅茅に声をかける。
「この怨霊は、お前が倒したのか」
浅茅は反抗的にぶんぶんと頭を振った。
「違う。ぼくじゃない」
地面に落ちた呪符の燃えかすに気づいたのか、泰明は再度尋ねた。
「では、式神か」

――何があったのか、なぜぼくが悲しいのかなんて、泰明さんにはどうでもいいんだ。
悲しみを圧して、怒りがこみ上げてきた。
式神さんに力を流し込んだのは、ぼくだ。
ぼくの中の、何かとても……怖いものが、やったんだ。

浅茅は拳を握りしめ、食いしばった歯の間から声を絞り出す。
「ここまで…来られるなら、
なぜ…もっと早く来てくれなかったんですか。
そうすれば、式神さんが…こんなことには…」

浅茅の言葉が途切れた。
ぽたぽたと大粒の涙がこぼれる。
手の中の焼け焦げた札に、涙が落ちてしみをつくる。

「式神は陰陽師に仕えるもの。
主の命が危うければ、相打ちとなっても守るのが務め。
その呪符も、役目を果たしただけだ」

――それだけ?
役目を果たした?
「式神さんは死んだんだ…」
「お前の式神は呪符だ。ただの札に過ぎない」
「違う! 式神さんはぼくの友達だ!!」

冷たい…泰明さんは冷たい…。
ぼくは、友達を助けることができなかった。
弱いから…戦えないから…何の力もないから…

うつむいた浅茅の眼が、再び闇の色に染まりかけた。
その時……

浅茅は、泰明の手がそっと頭に置かれたのを感じた。
泰明の声が、静かに降りてくる。
その声の中にあるのは、悲しみ…だろうか。

「式神は命なきもの。
だが、命なきものにも、道具にも…心は宿る。
お前が式神を友と呼ぶなら、
式神もまた、友のために戦ったのだろう」

顔を上げると、不思議な色の瞳が浅茅をじっと見下ろしていた。
心の内まで見通すような、真っ直ぐな眼だ。

浅茅は気づいた。
泰明に向け、怒りにまかせて口にした言葉の数々は、
何もできなかった自分への言い訳にすぎないと。

「弔ってやれ」
泰明は短く言うと、背を向けて歩き出す。

「…はい…」
こくんと頷き、ごしごしと眼をこすって、浅茅は立ち上がった。



続く





―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時  2.草庵  3.分断  4.護法  5.傷心
6.式神  7.前夜  8.心を映すもの  9.雷雲  10.惨劇
11.(わか)  12.雨の後  13.岐路  14.散滅
16.逃走  17.行方

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2010.03.16  筆