ことのほか暑い夏であった。
梅雨時には大雨が続き、京の各所で川が氾濫して
青空の見えぬ日ばかりであったというのに、
ひとたび雨が上がると、太陽がかっと照りつける炎暑が訪れた。
地面にたっぷりと含まれていた水が、湯気となってゆらゆらと立ち上り、
息苦しささえ感じる毎日だ。
そして八坂の祭りを前に、
宮中でも倒れる者が後を絶たず、京の各所では連日のように祈祷が行われた。
内裏の祈祷のため、安倍晴明が呼ばれて大がかりな儀式が催されたのも当然と言えよう。
だが、手当も祈祷もなされぬ人々はなすすべもなく病に倒れ、
うだるような暑さの中、京の街には陽炎と瘴気が立ち上っていた。
過剰な雨に叩かれ、炎熱にさらされた畑に緑はなく、
飢饉がすぐそこまで来ているのは明らかだ。
人心は乱れ荒み、瘴気が広がるにつれて、
京の街のそこかしこに怨霊が立ち現れるようになった。
安倍の陰陽師だけで調伏できるような数ではない。
市井の似非陰陽師や生臭法師は、病の者相手に加持祈祷の真似などして、
その生業としていたが、怨霊相手に太刀打ちできるはずもなく、
命惜しさにひたすら逃げ回るばかりだ。
湿地の多い洛西は、さらに惨憺たる状況になっている。
点在する貴族の別邸には人影もなく、荒れた庭に乾いた草がはびこるまま。
かろうじて人の姿があるのは、大きな寺社の周りだけ。
葦の生い茂る泥地からは、瘴気がじわじわと滲み出している。
川から離れた山の中といえど、京を覆う暑さからは逃れようもない。
竹の藪に囲まれた草庵にも、陽の当たらぬ分だけ、じめじめとした気が淀み、
中の君は、こほこほと小さな咳が止まらない。
――嫌な気が漂っている。
夕暮れ近く、傾いた陽の下で晴源は山を見上げ、
密生した竹林の向こうの荒れた原と川を思っていた。
何なのだろう……結界は張ってあるというのに。
人の目に見えぬものを見、聞こえぬ声を聞き、
触れることのできないものに対峙するのが陰陽師。
晴源の陰陽師としての能力は人後に落ちぬどころか、
綺羅星の如き安倍の高弟達の中でも抜きん出ている。
しかし、その晴源にして、これほどに正体の分からぬ不安にさいなまれたことはない。
陰陽の力でもなく心でもなく、身の内側が反応してざわめいている。
空気の底に、何かが潜んでいるのか……。
目を閉じ、気を凝らしてみても、確たるものは何も掬い取れない。
晴源が感じ取れるのは、それが次第に澱のように溜まっていくこと。
気まぐれに吹く生暖かい微風に流れゆくこともせず、滞っていることだけ。
「どうなさいましたか、晴源殿? 難しいお顔をされて」
草庵の戸が開いて、尼僧が出てきた。
山の陰にうずくまる草庵を背に、墨染めの衣は周囲に溶け入るように目立たない。
しかし晴源には、尼僧の姿が花灯りのようにほんのりと明るく見える。
余計な心配をかけてはいけない。
晴源は頭を振り、笑ってみせた。
「何でもありません。結界を少し強めただけです」
笑みが返ってきた。
「ありがとうございます。
ここに怨霊が現れず、安心して暮らせるのは晴源殿のおかげ。
本当に心強く思っています」
「い、いいえ…私にできるのはこれくらいですから…」
しかし晴源は、尼僧の眼に翳りを見て言葉を切った。
それは今までに見たことのない、迷いに似たもの。
「あの、私は何か粗相をしたのでしょうか」
尼僧はそれには答えず、しばし眼を伏せて思案していたが、
やがて思い切ったように口を開いた。
「晴源殿、いつまでもここにいてはなりません」
雷に打たれたような衝撃に、言葉を失う。
尼僧は静かに続けた。
「もっと早く、お話しすべきだったかもしれません。
私、ずっと考えていたのです。
晴源殿の強いお力を、私たちだけのために使ってよいものなのかと。
安倍の方々は今この時も、京の惨状を救おうとなさっているはず。
晴源殿の並外れた力は、そのためにこそあるのではないでしょうか」
ずきり…と胸が痛む。
「私は……」
「街に下りた時に、あなたもご覧になったでしょう。
行き倒れた人々の、あの有様を」
晴源の眼は、それ以上のものを見聞きしていた。
骸にわらわらと取り憑く餓鬼、そこかしこに聞こえる疫神の笑い声までも。
どれもみな、晴源の気を察知するやいなや散り散りに逃げたのだが。
――洛中もあのような状況なのだろうか。
だとしたなら、御師匠様のことだ。
自ら街に出て、調伏などしているかもしれない。
兄弟子達も……皆で。
しかし――
「私は…安倍家を出奔した者です……」
晴源は、かすれた声で言った。
真剣な眼差しと出会う。
眼の前にいるのに、星よりも遠い人の眼差しと…。
「ごめんなさい、場所も選ばずこんなお話しを…」
尼僧は小さく頭を下げ、次いで明るい声を出した。
「そうでした。私、これを…」
そして、持っていた椀を晴源に手渡す。
ささやかな夕餉の菜だ。
「白湯もお持ちしますね」
そう言って背を向け、尼僧は草庵の戸をくぐった。
背を真っ直ぐに歩く姿は、内裏の庭を行く時と同じ。
しかし柔らかだった肩の線は、今では折れそうなほどに華奢だ。
何もできなかった……
何もできないまま、去るべきなのか。
ここに、このような場所に、あの人を置いて去るのか?
結界は、怨霊を弾いても、猪や野犬相手には用を為さない。
夜盗が近づいて来たのも、二度や三度のことではない。
その度に、彼女たちの眠りを覚まさぬよう静かに、
しかし、二度とここに近づく気を起こさないよう手厳しく退けてきた。
私には、このまま去ることなどできない。
そのためにここに来たのではないか。
そのために……。
再び姿を現した尼僧は、晴源に白湯を手渡すとすぐに草庵に戻った。
明日は早く、ここを発たなくてはならないのだ。
藤原家に縁の深い寺で、名のある高僧を招いて加持祈祷が行われるという。
落飾し家族との縁を断った身といえども、藤原の名はついてまわる。
中の君は、不調の身体をおして参列することになっていた。
当然、供と護衛も同道する。
まとわりつくような暑さの中、庭に建つ狭い小屋で、晴源は一人、椀を空けた。
夜が来ても涼風は吹かず、うるさい虫ばかりが周囲を飛び交う。
それでも、向かいの草庵に安らかな眠りが訪れていることを思うと、
心は静かに凪いでいく。
そのような夜が今宵限りで終わることを、晴源は知らず、
惨劇の舞台となる寺は、夜半の月に照らされて静かに眠っていた。
―― 花の還る場所 ――
第三部
1.小さな影の蠢く時
2.草庵
3.分断
4.護法
5.傷心
6.式神
8.心を映すもの
9.雷雲
10.惨劇
11.
12.雨の後
13.岐路
14.散滅
15.予兆
16.逃走
17.行方
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2009.12.03 小説部屋に移動