帝に上げられた密奏の書には、月の蝕みは凶兆、とあった。
実のところ、月食の予測はすでに奏上されていた。
それによれば、もっと前に起きるはずであったのだが、
予測の時期がずれることは稀ではなく、
月食が常に不吉の徴と見られるわけでもない。
それゆえ、予想された日に起きなくても、
特に問題とする必要は無い…とされていたのだ。
だが今は、京に強力な怨霊が蘇りつつある時。
占いの結果も、今回の月食を看過すべからず、と出た。
はたまた月が欠けるのと相前後して、
内裏の門衛が二人、無惨な死を遂げている。
生々しい傷跡から類推するに、門衛を襲ったのは
獣にしては大きすぎる牙と爪の持ち主。
とすれば、これは怨霊の仕業としか考えられない。
とうとう内裏にまで、怨霊が現れたのだ。
天文博士は密奏の書をしたためる前に、この凶報を耳にしていた。
となれば、此度の月の蝕みを凶兆と言わずして何としようか。
さらに書は、祓えの儀式についても触れていた。
この禍事により儀式を繰り延べしないように…と。
帝の潔斎中に内裏に穢れが持ち込まれたならば、その禊ぎは不浄とされ、
潔斎にまつわる全ての手順が最初からやり直しとなる。
だが、それでは祓えの儀式を延期せざるを得なくなる。
京の穢れを祓うのが遅れれば、さらなる穢れが澱んでいくだろう。
穢れの最たるものは死。
とはいえ、門衛は内裏の中ではなく外側に立っていたのだから、
穢れが内側に持ち込まれたわけではない――と強弁して、
密奏の書は終わっていた。
天文記録の再考を、という安倍晴明の申し出は、今や公然と無視されている。
厄介な老人が直々に口を出してきたものだと
苦々しく思っていた天文博士だったが、
弟子が不始末をしでかしたとかで、晴明は昇殿を禁じられてしまった。
そこでこれ幸いと、知らぬ振りを決め込み、
届けられた依頼の書状をも握りつぶしたのだった。
結果、行貞の抱いた疑念は確かめられることもなく、
そのまま捨て置かれることとなった。
右大臣の口添えで中務省陰陽寮への出仕が決まった大津の陰陽師が
まず望んだのは、天文の司に勤めること…であった。
誰の目にも無欲と映るそのことと、記録保管室に現れた物の怪。
それらと月の蝕みとを結びつけて考えるよすがは、
天文博士とて持ち得なかったのだ。
北山――
松の巨木の枝に座し、泰明は空を見上げている。
上空には、悠々と弧を描いて飛ぶ一羽の鷹。
そのすぐ下を、勇敢な小鳥がぱたぱたと羽ばたいて通り過ぎようとした。
獲物を見つけた鷹が、急旋回をする。
だが、逃げようともせず飛び続ける小鳥を爪にかけようとした瞬間、
鷹は突然反転して、遠くの峰を目指して一直線に飛んでいった。
小鳥を餌にすることはあきらめたようだ。
一方、小鳥は鷹のことなど最初から眼中にない様子で、
ぴぃ…ちぃ…と鳴きながら、伸ばした泰明の手の先に下りた。
泰明は小鳥のさえずりに耳を傾け、一言二言返事をした。
「そうか…」
ぴっ…ちち…
「分かった。山を下りる」
ぴぃぴぃ…
「行け」
ぴぴぴ…
再び大空へ飛び立った小鳥を見送ると、泰明は隣の松に飛び移った。
「天狗の真似か、泰明」
頭上から降ってくるからかうような声に、泰明は素っ気なく答える。
「近道だ」
「次の木には、飛びつく枝などないぞ」
「地に下りて歩く」
地面に飛び降りた泰明を、なおも声は追っていく。
「帰りは早足か」
「行きも帰りも同じだ。私は急いでいる」
「相変わらずじゃな、泰明」
小さな窪地に建つ、打ち捨てられた杣人の小屋が見えたところで、
泰明は足を止めて顔を上げた。
「天狗、私は神子を連れて京に下りる」
「短い山暮らしであったな」
「ここにも災禍が及ぶかもしれない」
「案じてくれるのか?」
「天狗のことに口出しするつもりはない。
だが、私は…」
珍しく泰明が口ごもった。
ややあってから続いた言葉は、少々的外れなものであった。
「この世に在ることができて、よかったと思っている」
泰明の誕生は、師・安倍晴明と北山の天狗の力があればこそのもの。
泰明としては、それに感謝していると伝えたつもりだ。
何とも不器用なことだと、天狗は思う。
「福を大切にすることじゃ、泰明よ」
「言われるまでもない」
小さな包みを胸に抱えて、あかねが小屋から出てきた。
「用意はできたか、神子」
「はい。今度はどこに移るんですか?」
「洛中に戻る」
「え? でも見つかってしまうんじゃ…」
「不安か、神子」
ふるふると頭を振り、あかねはにっこり笑った。
「お前のことは、必ず守る…」
抱きしめた腕の中で、あかねがこくんと頷く。
空は高く青いというのに、京を取り巻く気がざわめいている。
天狗は山の頂の遙か上まで飛び上がった。
空の高みから見下ろす京は、いつもと変わらぬように見える。
だが、いつまでも変わらぬものはない。
天狗がこの北山に棲み始めた頃に見た景色は、
まだ京という名も持たず、大きな池が広がるばかり。
街の形どころか巨椋の池も鴨の川も桂川も大堰川も
全て区別なく水の中であった。
船岡の山ばかりが、浮島の如く頭の先を出していたものだ。
その頃は、我らもまた天狗という名を持ってはいなかった。
杉の木の天辺に降り立ち、天狗はしばし物思いにふけった。
幾たびも繰り返し飽くことなく、人は災いを呼び、
人は災いに打ち克ってきた。
だが、この気の震えとざわめきは……
人の呼び起こしたものなのだろうか。
いつしか天狗は、山道に見え隠れする泰明とあかねの姿を
目で追っている自分に気づいた。
二人は次第に遠ざかり、やがて視界から消え……
その後、天狗が二人を見ることはなかった。
安倍屋敷の小さな部屋で、枯れ木のように痩せた女が眠り続けていた。
その枕辺にちんまりと座り、浅茅は母を見守っている。
安倍晴明自らが祈祷を行い、治癒のための術を施した。
さらには安倍家の高弟が、引き続き様子を見ている。
長任や行貞(また怪我をしたらしい)も、
時折顔を出しては、浅茅に励ましの言葉をかけていく。
浅茅にできることは、ただ母の側にいることだけだ。
屋敷は今、とても静かだ。
もうすぐ「儀式」があるのだと言う。
だからお師匠様はとても忙しい。
「昇殿を禁じられた」そうだが、それがどういうことなのか、
浅茅にはよく分からない。
それでも、儀式の中心になるのはお師匠様だ。
出自を知りながら、自分を弟子として迎え入れた晴明の真意を解するには、
浅茅はまだ少し幼すぎた。
ただ、晴明の心に潜む悲しみのようなもの…
それだけは、言葉にできないながらも感じ取っている。
泰明さんとあかねさんは、どこかに行ってしまった。
二人が安倍の屋敷から脱出したことは、後から聞いた。
検非違使に追われているのだという。
それもまた、浅茅にはわけが分からない。
分からないことばかりが、浅茅の中でぐるぐると回っているかのようだ。
じっと動かない浅茅だが、心の中は激しく乱れている。
洞窟から戻れたあの夜――
思いもかけない母との再会だった。
聞きたいことはたくさんあった。
本当のことを知りたかった。
具合が悪そうだったけれど、母さんは笑顔で心配ないのよ…と答えた。
長任さんが真剣に止めたのに、母さんは無理をして…話してくれた。
どうしても話しておかなくてはいけないから、と母さんは言った。
そして何度もぼくに謝った。
ぼくは、母さんがどれほど辛いのか、ちっとも分かっていなかった。
母さんは背中を真っ直ぐに伸ばして、
優しい声で、ぼくの手を握りながら言った。
――私は若く、何も知らない娘でした。
けれど、晴源様と共に過ごした歳月を悔やんではいませんよ。
あの日々がなければ、浅茅…あなたはいなかったのですから。
そして…そのまま倒れて……。
浅茅は、目をごしごしとこすった。
もぞりもぞりと、自分の中で蠢くものがある。
目の前には、昏々と眠り続ける母がいる。
浅茅は、母の痩せ衰えた顔に落ちた影を見つめ、
その傍らに座り続けている。
母が語った過去の事実を、幾度も思い返しながら。
―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛
3.破戒
4.土御門
5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑
8.裏鬼門
9.禍事
10.蝕み
11.暗き水
12.冥き国
13.欠けた力
14.亀裂
15.神子
16.悲しみの日
17.狭間
18.花の還る場所
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2010.04.24 筆