藤姫の目の前で、残された二つの宝玉が消えた。
「天真殿! 詩紋殿!」
束の間、嬉しさに震えた藤姫だったが、すぐに手放しで喜べないことに気づく。
なぜ宝玉は消えたのか――
今この時に、新たな八葉が選ばれたとは考えられない。
だが天真も詩紋も、すでに元の世界へ戻っているのだ。
宝玉が消えたのは、二人に再び宿ったからではなく、
震と坤の気を探すため、どこかへ飛び去ったから…
と考える方が自然かもしれない。
天地の理の均衡を取り戻す法は、それしかないのだから。
「姫様、ここは危のうございます」
「ささ、早く出られませ」
女房達が泣かんばかりの声で藤姫を急かしている。
藤姫は静かに従った。
日の蝕みは思いの外長く続いており、
さらには地鳴り、地響きまでもが加わっている。
いつ果てるともない暗黒の時間。
だがこの闇の中、神泉苑ではあかねが、八葉が…
光を求めて戦い続けているのだろう。
建物が倒れた時に備えて急ごしらえの御座所が庭に設けられ、
周囲には篝火があかあかと焚かれている。
だが、「こちらへ…」と言う女房に藤姫は頭を振り、
庭へと下りる階をそのまま通り過ぎた。
行く手は灯り一つなく、人気もない空き部屋だ。
「姫様!」
手燭を持って追いすがる女房に、藤姫は短く言った。
「私は神子様のお部屋で、黒日の終わりを待ちます」
そして、小さな手を胸の前でぎゅっと組み合わせる。
「一人で祈りたいのです。灯りも…要りません」
自分の小さな祈り…。
それは大きな災厄の中では、空しいものなのかもしれない。
けれど、形を持たなくても、力を振るうことができなくても、
藤姫は明日を…闇の向こうに続く時間を希う。
鈴の音が響いた。
暗黒の神泉苑は消え、あかねの周囲はまばゆく白い世界。
大きな力が、そこに在る。
黄金に輝く龍の目が、自分を見つめていることが分かる。
懐かしくも厳かな声が、虚空を満たした。
神子
我が神子
龍神様…
やっとあなたの声を聞くことができました
汝が時空を繋ぎ、八卦は満ちた
我は汝の中に
龍神様
私、お願いがあります
我が神子
汝は何を欲するや
龍神様の力を貸して下さい
滅びを止めて、京をこの先の時へ…
虚空の光が少し、揺れた。
我が神子
暗き力は強い
その願い叶う時、人の身は時空の狭間に散り
汝は汝を失う
言の葉は真なるや
あかねは大きく息を吸い、僅かに残っていた怖れを消し去った。
両手を合わせ、指を組んで眼を閉じる。
私の中の龍神様…
心を開きます
この心が、私の思いの全て……
あかねを包んでいた淡い光が、眩い輝きとなった。
ほとばしり出た光の柱が、天と地を結ぶ。
その光は闇に覆われた空を照らし、
渦巻く冥界の黒雲を、無数の影もろとも四散させた。
地鳴りが止み、池の中の雲海も凍り付いたように動かない。
神泉苑のそこかしこに蠢いていた魑魅魍魎が
きいきいと耳障りな声を発して、池の中へと戻っていく。
「宗主」の骸はどろどろと溶けて形を失った。
あかねから、無尽蔵の力が流れ来る。
宗主は顔を覆い、後ずさりした。
龍を…呼んだか
だが 邪魔は させぬ
宗主の手から凄まじい瘴気が放たれ、嵐となってあかねに向かう。
しかし黒い瘴気は、白い光の中に跡形もなく消えていく。
ならば 叩きつぶすまで
「させぬ!」
八葉の攻撃が、宗主に襲いかかる。
黒日の周囲に微かに赤い光がある。
時が、動き始めたのだ。
眩い世界が消え、白い光の向こうに宗主と戦う泰明が見えた。
その姿を…あかねは見つめている。
自分の中に流れ込む力は刻々と増していく。
その圧倒的な力に飲み込まれて自分を失うまで、
その最後の一瞬まで、「愛しい」という気持ちを抱きしめていたい。
――私は、とてもわがままなのだろう。
京が救われること、みんなが…泰明さんが救われることが、
私の幸せ。
私は、自分の幸せを望んだだけなのかもしれない。
龍神様、ありがとう。
私の中には、きれいなものも、醜いものも
たくさん見えたはずなのに…。
それでも、あなたは、私が神子であることを許してくれた。
瘴気が晴れていく。
神泉苑を分断していた亀裂がゆっくりと閉じた。
宗主が咆哮し、膝を折る。
晴明と吉平の術が同時に放たれ、宗主を縛した。
ああ……
みんなが…こっちに駆けてくる
みんないっぱい怪我をしているのに
そんなに走ったら痛いでしょう…
泰明さん…泣きそうな顔をしてる…
ごめんなさい
こうするしか、なかったの
時空を渡り、みんなと出会って
あなたと出会った
不思議な出会い
かげがえのない時間
大切なひとたち
消えることのないたくさんの思い出
私はみんな大切だから
こんなにあなたのことを愛しているから
私の知らない人達も
たくさんの大切なものを心から愛して
明日に生きたいのだと思う
あなたを愛さなかったら
私はきっと何も知らないままだった
大切なことをたくさん教えてくれて
ありがとう…泰明さん
お願い…そんな悲しい顔をしないで
泰明さん、あなたを愛してい…ま……す
光の中に飛び込み、
泰明はあかねを力一杯抱きしめた。
「神子! あかね!!」
その名を呼んでも、あかねは腕の中で動かない。
大きく見開いたあかねの瞳が、金色に輝く。
龍神が、降りてきたのだ。
「だめだ神子! 行くな!」
腕に閉じこめたあかねの身体が、
見えぬ力で奪い去られようとしている。
「お前を龍神になど、渡しはしない!」
だが固く固く抱きしめているのに、
腕の中のあかねの姿がどんどん薄らいでいく。
「神子…」
消えかかったあかねの頬を両手ではさみ、
泰明は、そっと唇を重ねた。
ただ一つ、残された道がある。
「神子…共に行く」
泰明は躊躇わなかった。
眼が眩むほどの光を放ち、白い光柱は消えた。
天には太陽の細い輪郭が再び現れ、
力強く輝きながら、みるみるうちに元の形へと戻っていく。
青く晴れた空に、鳥の囀りが響き渡った。
だが神泉苑に残された八葉は、呆然として光の消えた跡に佇んでいる。
あかねの姿はなく、
ただそこに在るのは、
壊れた人形のように倒れ伏した泰明だけであった。
―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛
2.刻・迫る
3.破戒
4.土御門
5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑
8.裏鬼門
9.禍事
10.蝕み
11.暗き水
12.冥き国
13.欠けた力
14.亀裂
16.悲しみの日
17.狭間
18.花の還る場所
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2010.07.20 筆