花の還る場所  第四部

8.裏鬼門

ホラー風味ですので、苦手な方はご注意を!


西の京裏鬼門の儀式の場は、神泉苑の例に倣ってか、大きな池の側に位置している。
宗主の定めたその場所は、大津の館にも桂川にも近く、
陽の光を受けて輝く水面が、木の間越しにまぶしい。

儀式の中心を為す祭壇は、神泉苑の方角を向き、
その方角を先に進めば、鬼門の側の祭壇に至る。

遠く近くに、時を告げる寺院の梵鐘が鳴り渡り、
「畏み畏みもの申さく…」
黒天蓋の中から聞こえてきた祓えの言葉を合図に、祈祷が始まる。

祓えの声が常よりも低く、くぐもっているように思えるのは、
大きな儀式に臨んだ緊張に加え、天蓋越しに聞いているからだろう
――周囲で祈祷する大津の陰陽師達は、そう考えた。

当然、その場に集まった多くの人々の目には、
滞りなく儀式が進んでいるように見えている。

しかしやがて、大津の陰陽師達は異変に気づいた。
祭壇の向こうに見える池から輝きが消え、
何かがゆらゆらと立ち上っているのだ。
青黒い靄のようなそれは、次第に広がってこちらへとやって来る。
あれだけ晴れていた空が、いつの間にか雲に半ば覆われていて、
辺りは心なしか薄暗い。

大勢で唱える祈祷の声が渦巻く中、高位の弟子に目顔で指示された一人が、
その場を離れて様子を見に行く。
靄の見えぬ人々は、何事かとその行方を目で追った。

「大丈夫か、あいつ。池の方から嫌〜な感じがするぜ」
人々に紛れた京職の男が、様子を見ようと人垣の前へ進んで行く。
「何も変わったことはありませんぜ」
「嫌な感じってのも、よく分かりやせん」
「変な感じがするのは、イノリとかいうガキの持ってきた守り札のせいじゃないですか」
仲間の男達は口々に異議を唱えながら、その後を追う。

とその時、池に向かった弟子が喉をかきむしりながら倒れた。
群衆の中から幾つもの悲鳴が上がり、儀式の場は騒然となる。
助けに走った大津の者がそこにたどり着くよりも早く、
弟子はぴくりとも動かなくなった。
青黒い靄はその身体を乗り越えて、
変わらぬ速さでゆるゆると広がり続けている。
助けの者は何か叫びながら全速力で駆け戻ってくる。

大津の陰陽師達は祈祷を止め、高位の弟子が数人、
宗主を呼びながら、黒い天蓋に覆われた祭壇に駆け上がった。

喚き騒ぎ、混乱する人々の中で、京職の男は叫ぶ。
「ここは危ない! 逃げろ!!」

その声で我に返った人々は、蜘蛛の子を散らすようにてんでに走り出した。
京職の合図で、仲間の男達が素早く先回りし、
転ぶ者や人の下敷きになる者が出ないよう、
強面ぶりを発揮して、人の流れを巧みに誘導していく。

普段の仕事が生かされているようだ。
左京で騒ぎがある度に駆けつけては、
周りに集まった人々をその場から即刻退去させるのが
彼らにとっての日課のようなものだからだ。

――俺が見込んだだけのことはある。
京職の男は心の中で頷いたが、すぐに渋面になる。

波が引くように人々が去った後、
それでも、今いる場所から動かぬ人々がいるのだ。

ここで起きていることに気づいているのかいないのか、
儀式の前と同様、何かを期待するように身を乗り出し、
目ばかりを爛々と光らせているだけだ。

「命が惜しけりゃ早く逃げろ!!」
京職の男が再度怒鳴っても、女ですらびくりともしない。

男の仲間が戻ってきて彼らを見回し、一人があきれ顔で言う。
「こいつら、どういうつもりだ」
別の一人が、肩をすくめた。
「まあ、人の数が半分くらいになったのは好都合だ。
これなら、例の子供も探しやすいってもんだ」
「さっさと見つけて、あっしらも早く逃げやしょう」

しかし京職の男は頭を振った。
「それはお前らに任せる。こいつらを何とかしてここから逃がせ」
そして祭壇を振り返る。
大津の陰陽師が取り囲んでいるその祭壇が、
今はたとえようもなく「嫌な感じ」に包まれているのだ。
「俺は、あの天蓋の中を見てくる」

京職の男が一歩踏み出した時、黒い天蓋から幾つもの悲鳴が聞こえ、
最後に入った高弟が、足元をよろけさせながら外へと転び出た。

「どうした!」
「何があった!」
外にいた者が口々に問うが、高弟はさらに逃げようと身をもがき、
ひいひいと小さく声を出すばかり。

後ずさる大津の陰陽師をかき分け、京職の男が祭壇に駆け上がる。
「何者!」
上ずった声で誰何されるが、男はそれには答えず、天蓋を覆う布を鷲づかみにした。
「手を離せ」
「こ、ここは…神聖なる祭壇だ」
「神聖だと? 寝ぼけるな。
今、あんたらの仲間が悲鳴上げて逃げ出したばかりだろうが」
止めようとする者達を男は睨み、一気に天蓋を布ごと引き倒す。

空が暗くなり、辺りを冷気が包んだ。
露わになった天蓋の中。
皆、凍り付いたように動けない。

宗主に助けを求めようと、天蓋に駆け込んだ弟子が、
折り重なって倒れている。

しかしそれを意に介する気配もなく
「…禍…畏……穢……災……厄……」
くぐもった声で、祈祷ばかりが続いている。

だがこれは、祓えの祝詞ではない。
そして、それを唱えているのは、髪を掴まれて顔を引き起こされた、
宗主の名代として天蓋に入っていた高弟であった。

だらりと力なく垂れた腕、見開かれたまま瞬きしない目、
青白い肌の色は、それが骸であるしるし。
だが、血の気の失せた唇ばかりが微かに動き、呪詛の祈りを紡いでいる。

黒い布の下から、しわがれた声がした。
「仕方ないのじゃ。呪を唱うには口が要る」
「屍の口を借りるしかないのじゃよ」
「宗主殿はお首がありませぬゆえ」
「地の底で、童に砕かれましたゆえ」

皆が恐怖したのは、まさにその「宗主」の姿であった。

纏った装束は、大津の陰陽師の最高位を示すものだ。
だが装束から覗く弟子の髪を掴んた指は、生者のものではなく、白く歪んだ骨。
そして、装束の襟の上には、何も無い。

「宗主」は身体を反転させ、皆に向き直った。
ぱくぱくと骸の高弟が口を動かし、くぐもった声が告げる。
「我こそが…宗主…我が元へ…来るがいい」

京職の男は、祭壇の外へ身を投げ出した。
直後、「宗主」の放った瘴気が雷となって、祭壇を木っ端微塵にする。
数多の悲鳴が宙に散り、ふつりと途切れた。

すぐ隣に焼け焦げた木片がどさりと落ち、
周りの地面がえぐられているのを見て、
男は自分を包む不思議な光に気づいた。
懐に入れた魔除けの呪符が、ほのかにあたたかい。
「お前さんか、俺を守ってくれたのは」
小さな紙の札を引っ張り出して見ると、
安倍家の桔梗紋が脈打つように光っている。

「大丈夫ですかい?」
「な…何事が起きたんで?」
男の元に仲間が集まってくる。

――イノリに礼を言わなくちゃな。
無事に帰れたら…だが。

「俺のことなら心配ねえ。それより、あれを見ろ」
男が、祭壇の残骸に立つ「宗主」を指さすと、
強面の男達は、「ひっ」と叫んで腰を抜かした。

「腰を下ろして休むのは後にしろ。これから俺達はあの化け物を倒して、
残った奴らを逃がし、イノリの子分まで見つけなきゃならねえんだ。
忙しいんだぜ、おい」
「で…でも〜」
「俺達は陰陽師じゃないんですぜ。大津の奴らに任せましょうよ〜」
「怨霊や化け物には脅しが効きませんから〜〜」
「やれやれ、泣く子も黙る放免者が情けないこと言うなよ」

とはいえ、頼りになるはずの大津の陰陽師達は、
「宗主」に怖れをなし、放たれる瘴気に為す術もなく倒れていく。
その様子を、黙した人々がじっと凝視している。

どうしたらいいんだ……。

そして異様な光景には、異様な音がいつしか重なっていた。

ざざざ…ざざざ…ごごご…ごぼごぼ…
水の音だ。
青黒い瘴気に霞む池の方から聞こえてくる。

「宗主」が動いた。
人々が、それに呼応して進み出る。
「宗主」は池に向かってかしゃり、かしゃりと歩む。
その両隣には脇侍のように、あどけない姿の童子と童女が浮かんでいる。
人々は笑みを浮かべ、その後を追う。

「おい、あそこにいる婆さんは…もしかして」
「見た顔があるな。間違いねえ。あの若い夫婦ものもそうだ」
「みんな、宗主に祈祷してもらったヤツばかりだ」
「だったら、他の奴らもそうなのか」
「あの宗主、胡散臭いどころじゃなかったな。
とにかく、ヤツの思い通りにはさせるな!」

しかし、
「止まれ!」
「行くんじゃねえ!」
京職の男と仲間達が止めに入るが、多勢に無勢。
誰かを引き留めたとたんに、周りの者達が邪魔に入るのだ。
その間も、誰一人言葉を発することなく、沈黙の歩みが続いていく。

空を覆う雲は厚く低く垂れ込め、先ほどまでの晴天が嘘のように、
太陽の光を遠く隠した。





「どういうことだ…」
鬼門に配された安倍家の陰陽師は、こぞって焦りの色を浮かべている。

儀式により、ほどなくして清浄な気が巡り始めるはずであった。
しかしそれどころか、儀式を進めるほどに気の流れは滞り、淀むばかりなのだ。

――まるで、我らの力のみが吸い取られ、
穢れへと形を変えていくようだ。

祭壇の上で、安倍吉平は眉根を寄せた。

よもや、裏鬼門で何事かが…?
とにかく、このままでは儀式の意味がない。

吉平は祭壇から下りた。
自分が為しているのが異例のこととは承知の上だ。
しかし、このまま祓えの儀式を続ければ穢れを呼ぶ。

「鬼門の祓えは中断し、神泉苑へ遣いを出す」
よく通る声で吉平が告げると、皆が一斉に頷き印を解いた。
中から一人が進み出る。遣いの役目の者だ。
「晴明殿に仔細を報告し、併せて、裏鬼門に異変はないかも尋ねよ」
「承知」

ごおおおおおおおおっ!!

その刹那、凄まじい風が吹き過ぎ、吉平達を打った。
背後の山から立ち上った、黒く巨大なつむじ風だ。
鬼門の祭壇の上空をかすめただけであったが、
ざらざらとした瘴気が降り注ぎ、皆の息を奪う。

「今のは…何だったんだ」
「なぜ、このような穢れた風が…」

つむじ風の来た方角は、儀式の場の背後に続く鬱蒼と生い茂る森。
その上空に、暗黒の雲が渦巻いている。

「あそこは…」
「祟道神社か」

黒雲は、つむじ風の去った後を追うように広がっていく。
未申の方角へと。

その先にあるのは――神泉苑。

吉平は躊躇うことなく決断した。
「この場の者は全て、神泉苑に行く! 急げ!」





身体から、力が抜けていく。

あかねは唇を噛みしめ、真新しい木の格子に寄りかかって
よろめきそうになる身体を支える。

――泰明さんに心配をかけてはだめ。
もう少し…もう少しで……

どうなるというの?

何かが起きる…? それとも、終わるのだろうか。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛  2.刻・迫る  3.破戒  4.土御門  5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編  7.神泉苑  9.禍事  10.蝕み  11.暗き水
12.冥き国  13.欠けた力  14.亀裂  15.神子  16.悲しみの日
17.狭間  18.花の還る場所

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2010.06.26 筆