神泉苑の池を挟み、南岸と北岸で戦いが続いている。
ここ南岸にいるのは、晴明率いる安倍家の陰陽師達。
大津の「宗主」の骸などすぐに倒せると、誰もが信じていた。
しかし、黒日の下に力を得た「宗主」は、容易い相手ではなかった。
「宗主」が水を打つ度に、水底から夥しい数の魑魅魍魎が次々と現れ、
陰陽師に牙を剥き、あるいは池から離れ、周辺へと彷徨い出ていく。
晴明の術が一網打尽に消し去っても、すぐにまた次が現れる。
「宗主」自らは術を受けると、一度はばらばらに砕けて水に沈むのだが、
すぐにまた瘴気を吹き出しながら元の姿で浮き上がり、
かつての同門である大津の陰陽師に向かって、容赦ない攻撃を浴びせる。
予期せぬことに、戦いは長引いていた。
――祓えの儀式の日を境に、その先の未来が消える。
藤姫の占いは、この災禍を暗示していたのだろうか。
池の北岸で泰明達が戦っている相手は、もはや宗主ではない。
晴源に取り憑き、現世に戻る時を待ち続けていた闇の影。
京の地の底…闇に閉ざされた冥界から黒日の下に蘇った、
凄まじい力を持つ御霊、非業の死をとげた人々の怨念そのものだ。
むざむざと占いを現実にするつもりはない。
だが、戦いは互角…いや、むしろ劣勢と言うべきか。
宗主は、術と瘴気と水と雷を自在に操り、
水の中に立つ頼久、イノリ、泰明を攻撃しながら、
鷹通、友雅、永泉のいる露座の支柱をも端から砕いていく。
「こやつは、疫神を操っていた影…。あの時に気付いていれば」
頼久の剣が一閃するが、瘴気に阻まれてそれ以上に踏み込めず、
二の太刀を浴びせられない。
「強いな、こいつ。怨霊なんて生やさしいもんじゃないぜ」
イノリは身軽さを生かし、攻撃を避けながら宗主を引きつける役目。
だが歯がゆいことに、こちらからの攻撃はなかなか通らないのだ。
「京が繁栄していく様を、ずっと地の底から見てきたのでしょうか。
鎮まることのない恨みと共に…」
鷹通は、イノリに次の動きを指示しながらも、こみあげる苦さを抑えきれない。
「栄耀栄華の眩さの陰には、闇が広がっているのだよ。
その闇の深さは、敗者にしか分からないのだろうね。
そうは言っても、私は到底、宗主に同情する気はないのだが」
イノリと頼久の攻撃でできた隙を突き、友雅の放った矢が走る。
「早良親王のお気持ち、私には少しだけ分かるような気がします。
一途に、兄帝のために務められたことでしょうに…」
「甘いぞ、永泉」
「す、すみません…」
誰もが口にしないことがある。
あえて語らなくても、今こうして人ならぬ力を持つ敵に立ち向かいながら、
ひしひしと思い知らされていることだ。
それは――八葉としての力が使えないこと…。
対等に戦えているのは、陰陽の力を持つ泰明だけだ。
手傷ばかりが増えていく。
だが、彼我の力の差を超克することができるのもまた、人間。
皆の意気は衰えない。
――右の頬が疼いているように感じるのは、気のせいだ。
泰明は自らの感覚をきっぱりと否定しながらも、
耳、額、首、喉、手…それぞれの宝玉の痕に触れる皆の仕草に
気づいている。
その時、中央の支柱が崩れ、露座に乗っていた鷹通、友雅、永泉が、
高御座の残骸共々巻き込まれて水に落ちた。
大きな波が巨大な指のようにその周囲に立ち上がり、三人を掴む。
泰明の術が水を穿つが、水は形を変え動き流れて、
三人を飲み込んだまま。
「今行くぜ!」
駆け寄ったイノリに向かって水が大きく膨らみ、
あっという間に引きずり込まれそうになる。
頼久が咄嗟にイノリの腕を掴んで引っ張り出した。
「何すんだよ! 早く助けねえと!」
「落ち着け! お前まで捕らえられてどうする!」
「だったら、どうやって助ければいいんだよ、頼久!」
泰明は気を集め、再び印を結んだ。
「私がもう一度術を撃つ。水が途切れるのは一瞬だ。その機を逃すな」
暗闇の中、黒い水の奥が見えるはずもない。
だが、そこで仲間がもがき苦しんでいる。
見えなくても、分かるのだ。
何としても助けなければ、と強く思う心は一つ。
泰明の術が再度、水を撃った。
その刹那、泰明の頬に鋭い痛みが走る。
「つっ…!」
「いてっ!」
頼久とイノリも声を上げた。
泰明の術は渦巻きながら水を深くえぐり、空洞を作り出す。
イノリがその間隙に駆け込み、「こっちだ!」と叫びながら
永泉の袖を掴んで外に飛び出した。
続いて鷹通と友雅も咳き込みながら転がり出る。
ぐ…おおおおっ!
宗主が苦悶の声を上げ、黒い水が退く。
何が起きたのか……問うまでもない。
儚げに揺らめく白い光を纏った人影が、こちらに向かって歩いてくる。
その足取りは覚束なげだが、「宗主」の放った魑魅魍魎の群は、
白い光に気づくなり暗がりへと逃げていく。
再び宿った宝玉から伝わってくるのは、痛みと弱々しい力。
泰明が怖れてきたことが今、起きてしまったのだ……。
――だめだ、神子…お前は何もするな!
八葉は欠けている。
今、お前が力を使えば……。
「ふ〜っ、危ねえところだった」
助け出された京職の男は大きなため息をつくと
池の縁に立ち、暗闇に沈む砂の地獄を振り返った。
さらさら流れる砂は池の底に達した後、さらにその下へと吸い込まれて消えていく。
どこに落ちていくのかは分からないが、そこに吸い込まれたら最後、
命が無いことだけは確かだ。
「やっぱりお前達は頼りになるなあ、助かったぜ。礼を言う」
京職の男が仲間の放免者達に頭を下げると、
もったいねえですいやいやそんなあっしらそんなたいしたことは…と
彼らもへっぴり腰でぴょこぴょこと頭を上下させる。
次に男は、衛門尉に向き直った。
「検非違使の助力、心から感謝する。
仲間に縄を貸してくれた上に、俺達を引っ張り上げる手伝いまでしてくれるとはなあ。
俺はこれまで衛門尉殿を融通の利かない男と誤解していた。すまん!」
衛門尉は、露骨に渋面を作った。
「目の前でむざむざ貴族を死なせたとあっては、検非違使庁の大失態。
それだけのことだ。
そんなことよりも、京職殿が手当たり次第に街人なぞを抱えるから、
引き上げているこちらの方が落ちるかと思ったぞ」
「そいつは、怖い思いをさせちまったなあ。
だが、そのおかげで、砂に落ちた人達が命拾いしたんだ。
がんばった甲斐があるってもんじゃねえか」
京職の男はそう言って、からからと笑った。
「身を危険にさらしてまで街人を救って、何が嬉しいのかわけが分からぬ。
とにかく、縄を身体に巻いて砂に飛び込んだのは京職殿の配下。
我ら検非違使は、それを引き上げただけだ。
職分の内のこと。礼は要らぬ」
その時、放免者の一人がやってきて、男に耳打ちした。
「子供が目を覚ましやした」
その子供とは、イノリの子分のことだ。
周囲は真っ暗な上に、見知らぬ大人の中に一人だけ混じり、
心細そうにきょろきょろしている。
人波の中で探しても見つからなかったのも無理はない。
小さすぎて埋もれてしまい、全く見えなかったのだ。
「よっ坊主、イノリの子分てのはお前か?」
京職の男は子供の前にしゃがんで話しかけた。
子供は一瞬驚いた顔をして、次に元気よく頷く。
「おじちゃん、イノリの親分を知ってるの?
母ちゃんはどこ? ここはなぜ暗いの?」
男は苦笑して、子供の頭をくしゃっと撫でた。
「俺はイノリに頼まれて、お前を助けに来たんだ。
無事でよかったな。イノリも安心するだろう」
「へえ、じゃあおじさんは、イノリの親分の子分なの?」
「いや、違う」
「じゃあ、親分?」
「親分でも子分でもねえよ、友達だ」
「へえっ、すげえ…」
「いや、それほどでも…。じゃねえ!
お前、母ちゃんと一緒にここに来たのか?」
とたんに子供は半べその顔になった。
「そうだよ、父ちゃんに会いに来たんだ」
京職の男は、腹にぐっと力を入れた。
怒りの気持ちを見せたら、この子供が怯えてしまう。
「でも、父ちゃんはもう亡くなったんだろう?」
子供はぶんぶんと首を振った。
「宗主って人が、大津の館で会わせてくれた。
母ちゃんも連れてきたら、やっぱり会わせてくれたよ。
母ちゃん、泣いて喜んだ。おいら、いいことしたんだよな?」
男は必死で声を平静に保つ。
「一度会えたんだろう? それなのになぜ、儀式に来たんだ?」
子供は何を言っているんだ、という目で男を見た。
「そんなことも分かんないのかい?
この儀式は、父ちゃんを生き返らせてくれるためのものなんだ」
「何だと! そんなことを信じたのか!!」
しまった、と思うがもう遅い。
子供は大声で泣き出した。
「父ちゃん、池の所にちゃんといたじゃないか!
にこにこ笑って呼んでたのに、おじさんには見えなかったのかよお…」
男はむっつりとした顔で立ち上がった。
仲間の放免者を呼ぶと、一緒に母親を探すようにと言って、子供を託す。
検非違使の焚いた篝火だけが、ほの明るい。
その灯りの中で、池から助け出された人々がうずくまっている。
夥しい人数だが、何とか助けられた。
しかし力及ばず、幾人かは池の底に吸い込まれてしまったのだ。
京職の男は背筋に冷たいものを感じ、ぶるっと震えた。
――こんなに大勢を地の底に沈める気だったのか。
何のために、そんな酷いことをするんだ。
その怖ろしい企みの首謀者…偽者の宗主は今、神泉苑にいる。
男は暗澹たる思いに拳を握りしめた。
ここがこんな有様じゃ、神泉苑で騒ぎが起きていても不思議はねえな。
イノリは無事だろうか。
あの子供のことを頼みに来た時、武士の格好なんぞして、
宗主をやっつける!とか勇ましいことを言っていたが…。
がんばれよ、イノリ。
そこへ息せき切って、別の放免者が走ってきた。
「たッ大変ですぜ! お天道様が…消えちまいました!」
「な…何ぃ!?」
半信半疑の京職の男にかまわず、放免者はまくしたてた。
「ま、間違いありやせん。暗いのは雲のせいじゃねえんで。
事が事だけに、あの嫌みなおっさんが検非違使庁に応援の要請を出したんです。
そうしたら、その遣いの者が、お日さんが消えていくのを見たそうで…」
放免者はさらに話し続ける。
しゃべっている間は不安から逃れられる、とでもいうように。
「これは確かな話ですぜ。検非違使の連中の中に、
昔なじみの放免者がいますんで、そいつから仕入れた話ですから。
この世の終わりなんですかねえ…街に火の手が上がっているそうで…」
京職の男は、闇に覆われた空を見上げた。
――日の蝕みか。どうりで真っ暗なわけだ。
よりによってこんな日に儀式ってのは、偶然じゃねえんだろうな。
お日さん、早く顔を出してくれよ。
だが、これで終わりじゃない。
何か…とんでもないことが起きるような……とても嫌な感じだ。
あかねが歩を進めるにつれ、深い夏草が分けられるように
その周囲から水が退いていく。
皆から少し離れたところまで来ると、あかねは立ち止まった。
白い光が明滅し、あかねの笑顔を映し出す。
その笑顔は皆を励ますため、精一杯に作ったものと分かる。
宝玉に伝わる痛みは、何よりも正直だ。
「神子殿…」
「あかね…」
「あ…あなたは…」
「…君は…強いのだね、神子殿」
「神子…私は…」
「神子、なぜだ…。なぜお前は…」
あかねの元へ走ろうとして、泰明は足を止めた。
光の中で、あかねがゆっくりと頭を振ったのだ。
「私は大丈夫…」
微笑みを浮かべた唇が動き、あかねの願いを紡いだ。
友雅が、後ろを向いたままの泰明の肩に手を置いた。
「本当は、君が一番分かっているのだろう。
神子殿は本気だよ。
その思いに答えるのが、我々八葉ではないのかな」
イノリが拳をぐっと握りしめた。
「ありがとな、あかね。
ぐずぐずしてるヒマはないぜ!
さっさとこいつを倒しちまわねえとな」
鷹通は唇を噛み、頷いた。
「神子殿が苦しんでいるのが分かります。
早く終わらせましょう」
頼久は剣を構え、宗主との間合いを詰めていく。
「この剣は神子殿に捧げたもの。
必ずや、あの化け物を倒します」
永泉は数珠を手に、眼を閉じた。
「神子…こんなに苦しみながら、
それでも私達に力を与えて下さるのですね」
泰明は意を決し、宗主を振り仰いだ。
こうなったら一刻も早く、決着をつけるしかない。
「黒日は長くは続かない。
ここで宗主を食い止めれば、闇は祓われる!」
「そうか! こんな真っ暗が長く続くはずないもんな」
「もう少しの辛抱というわけだね」
六人が宗主を取り囲んだ。
「鷹通、お前の術は陽光による攻撃だ。今ならば使えるはず」
「はい…。神子殿…お辛いでしょうが、どうか…お願いします!」
振り向いた鷹通に応え、あかねが両手を組んで祈る。
「陽光…天浄!!」
眩い光が宗主を撃ち、その身体を溶かす。
――よかっ…た…
術…使えるんだ……。
あかねは、痛みに揺らぐ視界の中で、皆の戦いを見ていた。
この痛みは、身体と心を貫く痛み。
泰明さんなら…魂と魄……って言うのかな。
どこか遠いところで、そんなことを考える。
天真くんと詩紋くんがいないから…かな。
薄れていく意識に、必死にしがみつく。
刹那が永劫のように感じられる。
だが、それが何だというのだろう。
あかねは決めたのだ。
にっこり笑って、真っ直ぐに立っていると。
みんな辛いんだ。
私のことで、心配なんかかけたらいけない。
思い切り…戦ってほしい…。
私は…このまま倒れてしまうかもしれないけれど、
ずっと…笑顔だけを見せていよう。
最後の最後の…最後の一瞬まで。
お日様…どうか早く…戻ってきて…。
―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛
2.刻・迫る
3.破戒
4.土御門
5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑
8.裏鬼門
9.禍事
10.蝕み
11.暗き水
12.冥き国
14.亀裂
15.神子
16.悲しみの日
17.狭間
18.花の還る場所
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2010.07.13 筆