「少丞殿、左近衛府少将殿がお目にかかりたいと…」
鷹通の同僚の、謹厳実直一直線な治部省の若者が、
額に汗を浮かべながらやって来た。
その様子からすると、友雅にからかわれたに違いない。
若者の生真面目ぶりは鷹通の感化によるところが大きいが、
友雅のような人物を相手にすると、
どうしていいか分からなくなってしまうのだろう。
「ちょうど一区切りついた所ですから、今日はこれで帰ります。
左近衛府少将殿とは、外でお話しさせて頂くことにしましょう。
明日は休みますので、よろしくお願いします」
鷹通はそう言って若者に向かって丁寧に頭を下げ、部屋を出て行った。
「はい、少丞殿。お、お大事に…じゃなくて、お気をつけて…でもなくて…」
友雅に怖じ気づかない鷹通を、若者は尊敬の眼差しで見送る。
「若い者を、あまりからかわないで下さい」
治部省を出るなり、鷹通は友雅に言った。
「おや、私に言わせれば鷹通も若い者なのだが、
ずいぶん年寄り臭いことを言うのだね」
「私はもう慣れていますから」
「慣れる? あまりな言われようだ」
「すみません。少し言い過ぎました」
そして鷹通は声を低くする。
「ところで、友雅殿のご用件というのは…明日の」
「ああ、たいしたことではないのだが、
この後私は、左近衛府に詰めきりになってしまうのでね。
鷹通は、これから土御門に行くのだろう?」
「はい。明日は左大臣殿とご一緒いたしますので」
友雅は扇を広げて口元を隠しながら言った。
「左大臣殿の助力が得られて、何よりだったね」
「はい。おかげで、皆が儀式の場に揃うことができます」
祓えの儀式の場には、当然のことながら、誰もが臨めるというわけではない。
選ばれた者以外、神泉苑に立ち入ることはできないのだ。
左大臣の警護をする頼久、
左近衛府少将として帝を護衛する友雅、
法親王の永泉に関しては、何の問題もない。
だが、祓えとは無関係な治部省に勤めている上に、
まだ昇殿の許されぬ鷹通は、手だてを尽くしても難しく、
街人であるイノリは、どのような理由を付けようとも不可能。
となれば、どのような手を使って儀式の場に潜り込むか、
というのが、一番の問題であった。
だが左大臣の助力が、不可能を可能にした。
神泉苑での祓えの儀式には、左大臣も臨席する。
頼久は、その警護の武士を選任する役目なのだが、
任に当たり、左大臣が直々に言葉をかけてきたのだ。
――お前の信頼する者なれば、誰を選んでもよい。
武士に限らず誰でも…じゃ。
藤に相談するがよいかもしれぬな。
その「一任」のおかげで、イノリは堂々と武士団の中に迎え入れられた。
ただしそのままでは、傍目に武士でないことはすぐにばれてしまうので、
頼久自らが、武士としての所作、ふるまい方を教えねばならなかったのだが…。
イノリは飲み込みも早く、気概もあり、すぐに源氏の武士団に溶け込んだ。
武士団の面々も、以前に天真という破天荒な人物を受け入れた経験があるだけに、
それほどには驚かなかったらしい。
さらに左大臣は、藤原家に縁ある貴族を数人、儀式に臨席させることとした。
鷹通はその中の一人だ。
その顔ぶれを訝しみ、あれこれと噂が飛び交ったが、
左大臣は素知らぬ顔を決め込み、話が出てものらりくらりと受け答えをしたという。
右大臣も、これに関しては口出しできなかったようだ。
「そういえば、鷹通の席は決まっているのかな」
さりげない友雅の問いに、鷹通は正確な位置を即答した。
友雅の眉が上がる。
「武器の類は持たないのだろう、そのように思い詰めない方がいい」
「けれど、万が一の時のことは考えておくべきでしょう。
あの呪詛が再び私を縛した時には、友雅殿、どうぞ私を…」
友雅はひら…と手を振って鷹通の言葉を遮った。
「私が矢を放つより早く、近くの頼久が行くと思うよ。
彼ならば、鷹通一人止めるのに造作はない。当て身で十分なはずだ。
少し痛いかもしれないけれどね」
「確かに、頼久の当て身は効きそうです」
乾いた声で二人は笑い、沈黙が落ちた。
その足は自然と、人通りの少ない方へと向かう。
先に口を開いたのは鷹通だった。
「藤姫の占いのことを考えると、…どうにも落ち着きません」
人目のないことを確かめ、友雅は手にしていた扇を懐にしまう。
「あのような結果を知らされれば、普通なら大騒ぎするところだが、
落ち着かない…とは、冷静な鷹通らしいね」
鷹通はかすかに眉根を寄せて、言葉を選びながら言った。
「実を言えば、どうにも理解できないのです。
占いに関しては門外漢ですし、そもそも未来を見るというのは、どのようなことなのか」
「だが、いくら考えても答えは出ないのではないかな。
星の一族の力を持つ者にしか分からないものなのだろうからね」
「そうですね…。理屈で考えて理解できるものではないでしょう。
けれど、もしも安倍晴明殿の弟子が宗主と同一人物としたなら、
少しだけ、想像がつくような気がします。
あくまでも、想像の範囲ですが…」
二人は豊楽院を通り過ぎ、宴の松原の近くまで来ていた。
怨霊が頻繁に現れるようになって以来、好んで足を踏み入れる者はほとんどいない。
鷹通と友雅も、その手前で足を止める。
友雅は、黒々とした松林の上に広がる青い空を見た。
「晴源という人物には、何やら怖ろしげなものが取り憑いているようだね」
鷹通も空を仰いだ。
暗澹たる会話に似つかわしくない、高く澄んだ空だ。
「晴明殿は晴源殿の顔を知っています。
明日、宗主が現れれば、その正体がかつての弟子かどうかすぐに分かるでしょう」
「大津の宗主は、これまで安倍の陰陽師と顔を合わせたことがない。
泰明殿を除いてはね」
「会うことを避けてきた、と考えるのも、あながち間違いではないようですね。
多くの人の前に姿を現すのも、明日が初めてと聞いていますが」
「その通りだ。宗主はいつも、昼は西の京にある館で、街人の祓えをし、
夜は貴族の家に呼ばれて祈祷をしているそうだ。
祈祷の場には、ごく限られた人数しか入れない。
だから、顔を知る者は少ないのだよ。
街の女性達によれば、美男子のようだがね」
「大変な心酔振りでした。いささか度が過ぎている…と感じたくらいです」
「心酔…か。貴族の中にも、そういう連中が少なからずいるのだよ」
その時、林の奥で黒い靄のようなものが動いた。
滞った瘴気が、ゆるゆると流れて集まりつつあるのだ。
それに気づけぬ二人ではない。
「長居は無用、ということのようだね」
「戻りましょう。武士が三人、こちらに向かって来ています」
「では明日」
「はい」
権力を求めて争い、利の在処を探る。
しがらみと妬み、序列としきたり。
かくあるべしと求められること。
それらを全て捨てたなら、人は自由になるのでしょうか。
代償としての孤独を引き受けたなら、
全てを捨てられるのでしょうか。
答えは…否。
ここに、最も孤独な方がいらっしゃる。
捨てることを許されぬまま、
孤独であることを引き受けた方がいらっしゃる。
けれど、この方がそれを嘆かれることはない。
嘆くことを自らに許してはいないから。
自らの為すべきことを、
自らの務めを
自らの道を
凜として生きていらっしゃるから。
あたたかく強い御心は、幼き頃より変わることなく、
全てを捨てて逃げた私に
あたたかな気持ちを向けて下さるのも昔のまま。
この方のために、せめて私ができることは――
御簾の向こうから声がかかった。
「よくぞ来た、永泉」
永泉は深々と頭を下げる。
「祓えの儀式に参列することをお許し頂き、感謝申し上げます。」
これは帝と法親王としての会話。
儀式を前にしている今、二人だけで話すことなど、できるはずもない。
周囲には、少なからぬ人の耳がある。よけいな言を重ねてはならないのだ。
「一つ、礼を言わなければならない。
護身の札は、大層…役に立った」
晴明の呪符が役立ったということは……何らかの変事があったのだ。
言外の意味を悟り、一瞬、永泉の顔が強張るが、
御簾の向こうの兄の姿は泰然として揺るがない。
誰も知らぬことなのだ、とその姿は語っている。
永泉は黙したまま、再び頭を下げた。
――永泉よ
私が嬉しかったのは、護符を渡してくれたことではない。
帝の私ではなく、兄の私を案じてくれた、お前の心だ。
幼き頃より、お前は優しい心の持ち主だった。
今も変わらぬその心で、私を気遣ってくれていること…、
そのあたたかな気持ちは、何物にも代え難いものだ。
護符が退けた、闇に潜む魔の者は、
私の弱き心に忍び入ろうとしていた。
――定子を忘れ得ぬ、私の弱さに。
定子を蘇らせる…という魔の誘いになど、決して屈してはならないと、
幾度自分に言い聞かせたことか。
だが、愛しき者を忘れ去ることができようか。
繰り返し、在りし日の姿を目の当たりにした…
あの夢とも現とも分からぬものが、私を蝕む呪詛であったのだろう。
しかし、私はもう惑わぬ。
魔の者に、定子の思い出を穢させはしない。
「ごほん…」
控えめな咳払いがして、永泉は退出を促されていることに気づいた。
その場を下がろうとした時、帝が侍従に話しかけ、
自然、その会話は永泉の耳にも届く。
「儀式の準備は万端というが、壊れていた祠はどうなったか」
「はっ、元の通りに祭壇も扉も直してございます」
畏まった声が答えた。
御簾の向こうからの視線を感じ、永泉はゆっくりと頭を下げた。
帝が僅かに頷く。
傍目には、単なる退出の礼だ。
庭で地面をつついていた小鳥が、高く囀り、飛び立った。
その行方を眼で追いながら、永泉は懐の数珠を握りしめる。
白い雲が静かに流れる青空を、
小鳥は何処へともなく飛んで行った。
―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛
2.刻・迫る
3.破戒
4.土御門
5.思いを抱いて・前編
7.神泉苑
8.裏鬼門
9.禍事
10.蝕み
11.暗き水
12.冥き国
13.欠けた力
14.亀裂
15.神子
16.悲しみの日
17.狭間
18.花の還る場所
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2010.06.15 筆