花の還る場所  第四部

9.禍 事


裏鬼門の空には黒雲が垂れ込め、時が経つにつれ辺りは暗くなっていく。

空の異変をよそに、「宗主」の術からかろうじて逃れた大津の陰陽師達は、
これまでに起きた事の経緯を把握することができず、混乱するばかりだ。
畏敬の念と全幅の信頼を寄せてきた自分達の拠り所――
それが失われたという事実を認めることができないのだ。

彼らの心には等しく、大きな疑問が渦巻いている。
「宗主…あの骸が宗主だと?」
「では今まで、我々を導いてくれた宗主様は誰なのだ…」
「あんな魔の者が宗主様のはずは、断じてない」
「そうだ。宗主様は大津の再興ために努めて下さったのだ」
「おかげで右大臣殿の後ろ盾を得ることができ、今日という晴れがましい日を…」
「この日を右大臣殿に進言したのは宗主様だ…」
「よく考えてみれば、宗主様は時折ひどく怖ろしい気を発していたが」
「馬鹿馬鹿しい。我らの知る宗主様こそが本物だ」
「だが、ある日突然、我らの前に戻られたのだぞ。
それ以前のことは誰一人知らぬのだ」
「庶子の出ゆえ疎んじられ、遠い地に追いやられて苦労したと仰ったではないか」
「…しかし…都人の言葉を淀みなく話されていた。雛の地で育ったとは思われぬ」

その時、破鐘のような怒声が響き、彼らは飛び上がった。
「お前ら、何やってるんだ!!」
声の主は、先ほどしゃしゃり出てきて、天蓋を引き倒した男だ。
男は、一番近くにいた者の襟を乱暴に掴み、立ち上がらせる。
「ななな何をする…苦しい…」

男は池に向かって顎をしゃくって見せた。
亡者に導かれた生者の群が、涸れた池に次々と踏み入っていく。
「あいつらを放っておく気か! 女も子供も爺さん婆さんもいるんだ。
すぐに来て手を貸せ、あんたら陰陽師だろうが」
陰陽師達は青ざめた顔を見合わせた。
中の一人が、精一杯の虚勢を張る。
「我らに指図するとは無礼な…。お、お前は何者だ」
「こんな時に無礼もへったくれもあるか。俺は左京職少進、た…」

「これは異な事を聞いた。
左京職殿がなぜ、このような右京の外れにいらっしゃるのか」
夕暮れ時のような薄暗がりの向こうから、居丈高な声がした。
聞き覚えのある声だ。
忘れもしない、安倍の屋敷で泰明の捕縛に現れた衛門尉だ。
その時のことは、この男も覚えているのだろう。
あからさまな敵意が口調に滲んでいる。
しかし京職の男は頓着しなかった。
「いい所に来てくれたぜ、検非違使殿」
衛門尉は吐き捨てるように言う。
「我ら検非違使は、儀式の護衛を勤めている。
変事が起きたと逃げる者が多数いたゆえ、様子を見に来たまで。
左京職といえど、怪しい者は捕縛するぞ」

しかしその長口上が終わらぬうちに、衛門尉は大津の陰陽師と一緒に
京職の男に襟首を掴まれた。
そのまま有無を言わさず、池に向かって引きずられていく。

一旦は剣の柄に手を掛けた衛門尉だが、
異様な光景に息を呑み、わなわなと足を震わせた。

薄闇に包まれた広い池の中央に、両腕を広げて立つ首のない陰陽師。
その不気味な骸に向かって、群れをなした人々が一足一足進み、
先を行く者の姿は、まるで水に沈むように足元から消えていく。
その中で数人の放免者が、人々を岸に戻そうと奮闘している。
だが彼らの努力も空しく、無言の歩みは止まらない。

京職の男は、威儀を正して頭を下げた。
「衛門尉殿、こういうわけだ。ご助力願いたい」

衛門尉は京職の男をぎろりと一睨みするとぐっと唇を噛み、
配下の者達に大声で命じた。
「松明を持て! 人々を助け出す!」
「我らも…共に」
大津の陰陽師達も集まってきた。
「ああ、一緒にやろうぜ!!」

その時、ごぼり…と音がして、池から最後の水が失せた。





神泉苑の上に広がる空は青く晴れ、まぶしい光が降り注いでいた。
が、遠くに黒い雲がむくむくと大きくなっているのが見える。
ちょうど鬼門と裏鬼門の方角なのだが、それが怪異のしるしと分からぬ人々は、
ほどなく雨が降るのではないか、などと囁き合っていた。
鬼門と裏鬼門での出来事はもちろんのこと、彼らはまだ、
目の前の二つの祭壇で静かに事が進みつつあることにも気づいていない。

晴明は、水面を挿んだ黒い天蓋に鋭い眼を向けている。
そこから漂い来るのは、紛うかたなき邪気。
晴明は祈祷を続けながら小さな蜘蛛の式神を操り、
僅かに漏れ来る祈祷の言葉を、細く張った糸を通して聞き取った。

刹那、晴明の眼が厳しい光を帯びる。

――逆祓え。
宗主が唱えていたのは、禍事を呼ぶ呪であった。

「お師匠様の所作が…変わった」
「あの形は、悪しき咒いを打ち消すためのもの…」
長任をはじめ、儀式に加わっている他の弟子が気づく。

儀式開始以来、どうしても振り払えなかった不安の念が確信へと変じた。
異変を感じ取り、ざわ…と気が揺れる。
皆、晴明の術がどこに向けられているかを悟ったのだ。

          くっくっく…

声のない嘲笑が、天蓋から伝わってきた。

          効かぬ

これは、何の音だろう。それとも、誰かの声なのだろうか。

妖異、怨霊を相手に臆することのない安倍家の陰陽師だが、
身の内を冷たい手で掴まれたような、恐怖の念がわき起こる。

「ん? これも儀式であるのか?」
「ちと、おかしな具合じゃのう」
幾人かの貴族が、祭壇の様子を目に止めて呟いた。

頼久は小さく合図を送って武士団の配置を変え、
イノリは頼久の隣へと移動する。
鷹通はさり気なく膝を立て、いつでも動ける構えを取った。
友雅は配下の者に耳打ちすると、自らは池を回り込んで南の対岸へ移動する。
永泉はそっと前に進み出ると、高御座の中の帝にだけ聞こえるように、
低い声で言った。
「主上、どうか大津の祭壇から目をお離しになりませぬよう…」
「あいわかった」
永泉の声に潜む緊迫した色に、帝は短く答える。

訝しげな視線、懸念に満ちた視線、油断なく経緯を見守る視線…
人々の注視の中、晴明はゆっくりと腕を上げ、掌を黒天蓋に向けた。
「清浄を導く祈祷を穢れへと貶める呪法、許すわけにはゆかぬ」

晴明の気が放たれ、天蓋を吹き飛ばすのと同時に、
黒いつむじ風と黒い雲が神泉苑の空を覆う。
瘴気の風は真っ逆さまに池に突き刺さり、水に大きな渦を作った。
しかし黒い雲は上空でとぐろを巻き、辺りは黄昏時のように暗くなる。

貴族達の席から悲鳴があがり、右大臣が何かを叫んだ。

「宗主様に何をする!」
「儀式をだいなしにするとは何事か!」
大津の陰陽師達も気色ばんで大声を上げるが、
壇上の宗主を一目見るなり、それ以上の言葉を失った。

長く垂らした黒髪、女と見紛うばかりの白い顔、赤い唇。
しかし切れ長の瞳は闇色の光を帯び、全身に纏う瘴気は人のものではない。

「晴源…やはりお前は…」
食いしばった歯の間から、苦渋に満ちた声で晴明は言った。

宗主は赤い唇を歪め、冷笑を浮かべる。
「久方ぶりにございます…御師匠様」

「お前は、破門した時のままの姿だ」
「御師匠様は随分と衰えられたご様子」

晴明は、ゆっくりと頭を振った。
「歳月を経てなお姿が変わらぬことこそ、お前が闇へと墜ちたる証。
闇に呑まれたるものよ、姿は同じでも、お前は我が弟子に非ず。
晴源の魂を喰らい、その陰の気で宿主の時を止めたか」

宗主は眼を細めた。
「ままならぬこの身体に、我を封じこめたのはお前ではないか。
現身の分際で、出過ぎたこととわきまえよ、晴明」

「此度は封じるだけではすまさぬ。
邪なるものは滅するのみ」
「やってみるがよい。
だが、最初に滅するのは…」

宗主はゆるりと腕を伸ばして晴明に向け、次の瞬間、池の方へと無造作に袖を振った。
その先には、帝の高御座と貴族の席がある。

「させぬ!」
晴明の結界が、宗主の放った術を弾くのと同時に、
池の傍らに建つ真新しい祠の扉が吹き飛び、凄まじい気が宗主を撃った。

しかしその攻撃は宗主に届く寸前、中空に現れた水の鏡に吸い込まれる。
宗主は冷笑を浮かべたまま、祠から歩み出た泰明を見た。

「また会ったか、造化のモノ。
そこにいることは分かっていた。
我が贄も連れてくるとは、上出来」

泰明の眼には、冷たい怒りが燃え上がっている。
「貴様の好きにはさせない…。
お師匠! こいつの弱点は」

壇上から晴明が答えた。
「分かっておる。行くぞ!」

泰明と晴明、二人の放った気が空へと駆け上り、
垂れ込めた黒雲を吹き散らす。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛  2.刻・迫る  3.破戒  4.土御門  5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編  7.神泉苑  8.裏鬼門  10.蝕み  11.暗き水
12.冥き国  13.欠けた力  14.亀裂  15.神子  16.悲しみの日
17.狭間  18.花の還る場所

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2010.06.30 筆