花の還る場所  第四部

3.破 戒

過去編=オリキャラだけ出演です。ご注意を。



山間の村の小さな家に、赤子の産声が上がった。
「元気のよい子…」
面差しが変わるほどに疲れ切った母親は、
その口元に、満ち足りた笑みを浮かべている。

手伝いに来てくれた婆様が去ると、
追いやられていた父親は、やっと赤子の顔を見ることができた。

乳を飲んで空腹が満たされた赤子は、
母の胸に抱かれ、すやすやと寝入っている。

幸福な時間の中、母親は歌を口の端に載せた。
「浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき」

父親はかすかに首を傾げる。和歌の類には、さほど詳しくないのだ。
――古今の歌か? それとも参議…。
だが作り手ははっきり分からずとも、
この歌は……切ない。

言葉を探しあぐねている内に、母親は問うような眼差しを父親に向けた。

「この子を、浅茅…と名づけてはどうかと…考えました」
父親の顔に、笑みが広がる。
「浅茅か…よい名だ。元気な男の子にふさわしい」
「きっと健やかに育つことでしょう。それに…」
「それに?」

「お姉さまは、この歌がお好きでした」
「……あの方が…」
「歌の中に、お姉さまの名が読み込まれています…」

刹那、遠い幻が蘇る。

     嵯峨野の山の奥
     俗世の名を捨てた尼僧の住まう
     訪なう人なき草庵
     篠竹の林を吹き過ぎる風の音ばかりが
     朝な夕なに聞こえていた

その時、眠っていた子が、口を少し尖らせてあくびをした。
紅葉葉よりも小さな手に父親がそっと触れると、
赤子は細い指で父の指を握り返す。
柔らかく頼りなげな、剥き出しの「命」のあたたかさ。

愛し子よ…

父と母の慈しみの眼差しを受け、赤子はすやすやと眠っている。


 


異変は、二歳の春の日に起きた。

うららかな日射しが降り注ぐ中、雲雀の声を聞きながら
父は浅茅を抱いて川辺で水を汲んでいた。

自分の周りをひらひらと群れ飛ぶ蝶に、
浅茅は一生懸命手を伸ばす。

――自由に走れるようになったなら、
転びながら追いかけるのだろう。
微笑ましい思いと共に、父が蝶に目をやった時、
中の一匹が、空中で止まった。
そして羽が不自然にねじれたと見る間に、
ぷすり…と小さな音がして、その身体が四散した。

腕の中の我が子は、まるまるとした指を消えた蝶に向けている。
次いで、その指が空を指した。

「浅茅!」
父の声と同時に、雲雀の声が途切れた。
青空の高みから、千切れた羽根をふわふわと撒き散らしながら
黒い塊が落ちてくる。

浅茅は闇の色の眼で、声を出さずに笑っていた。
冷えていく身の内に蠢くものがある。
抱きしめた我が子の体内で、それに応えて何かが動いている。


               己が子を
               滅することができるか


「う…ああああ」
気づかぬうちに、苦悶の呻きが漏れている。
雷雨の御堂で響いたこの「声」を――忘れることはない。

「ああああああああ!!!」
喉も裂けるばかりに叫んでも、身の内に在る「声」は消せない。

「ふえぇぇぇ〜〜〜ん」
父親の声に驚いて、浅茅が泣き出した。
浅茅は、ささいなことも怖がっては、すぐに泣く。
その様子は、いつもと変わらぬ我が子だ。

「よしよし…驚かせて悪かった」
頭を撫でて、優しく話しかけるうちに、浅茅はやっと泣きやんだ。

父親は眼を上げて、狭い河原から上がっていく草深い道を見た。
家から辿ってきた道だ。
だが、今日この時を限りに、ここに来ることはもう二度と無い。

光に満ちた春の日の風景が、色を失って遠ざかっていく。

浅茅はまだ善も知らなければ悪も知らぬ。
言の葉も、この世の理も、人の喜び、苦悩も知らぬ。
何も知らぬゆえに無垢な心は、
いとも容易く邪なる色に染め上げられていくことだろう。

浅茅にしてやれることは、一つだけだ。
それは、「時」を与えること。
浅茅が成長するための、僅かな時間だ。

その時間を以て、己の中の闇に抗することができるか否か…。
答えは浅茅自身が出すしかない。


父親は浅茅の身体を浄め、
自らも粗末な着物を脱ぐと、川に入って呪を唱えながら身を浄めた。

「さらばだ…浅茅」
きょとんとしている我が子に微笑みかけると、
浅茅は声を上げて笑った。

「御師匠様、あなたの呪を破ります…」
父親の顔が、陰陽師安倍晴源のそれへと戻っていく。

印を結び気を集めると、安倍晴明によって全身に施された呪縛の印が、
灼けるような熱さと共に浮かび出た。
火の中に投じられたも同然の熱さ。
叫び声が喉を突き破って迸り出るのを、気迫で押さえつける。
転げ回るような痛みを、受け止める。

稀代の陰陽師晴明の渾身の術…容易く解けはしない。
だが、解かなくてはならない。
さらにそれを浅茅に移し、その力を封じるのだ。
浅茅の中で蠢くもの諸共に。

――御師匠様…
謝罪の言葉を口にする資格すら持たぬ身ゆえ、
時がまだ残されているならば、自らの身は、自らで決します。
けれどもしも次にまみえることあらば……、
どうか私を滅して下さい。





夫と我が子の帰りが遅いことに不安を募らせた母親が、
川原に下りて見たものは、ぐったりと横たわった浅茅と、
荒い息で空を見上げる晴源の姿だった。

「何があったのですか!」
そう叫んで駆け寄りながら、
母親はしん…とした心で悟っていた。
昨日までの日々は、もう戻らないのだ…と。

晴源の発する気が、離れていても脈打つように伝わってくる。
犯した罪により力を封じられたのだ、と聞いてはいたが、
それがどういうことかは、今この瞬間まで想像もつかなかった。

この人が、お姉さまの知る晴源様……。

晴源は息を収め、静かに言った。
「浅茅は眠っているだけです。そして…」

陽が陰った。
風が冷たい。
川の音が、耳につく。

「私は去ります」

いつかこの言葉を聞くのだと、心の片隅で怖れ続けていた。

「ここにいれば、あなたと浅茅を傷つけてしまう」
「なぜ…」
しかしその答えは、初めて会った日に、すでに聞いていたのだと思う。

  『……私は行く当てもない穢れた身です。
  そして今は、何の力も持っていません』

その暗く苦い言葉の意味を、あの時は深く考えることさえしなかった。

  『それでもいいのです…。どうか…』

私を見つめ、この人が小さく呟いたのはお姉さまの名。
そして……言ったのだ。
  『この心のある限り…私はあなたを守ります』
……と。

「時を経ずして、私は私でなくなるでしょう」
「あなたの心が…失われるのですか」

悲しげな微笑みと抱擁。
「幸せな歳月を…ありがとう」

歳月だなんて、一言で言わないで。
山の仕事も畑の仕事も、何も知らぬ男と女が
山深い里に流れ着き、住み処を作り、荒地を耕し、菜を育て、
日照りに苦しみ、野分に泣き、寒さに凍えながら、生きてきた。
一日一日を…。
あなたがいたから…生きてこられたのに。

「あなたがいたから…生きてこられました」
晴源はそう言って、ゆっくり身体を離した。
その顔にあるのは、諦念の笑み。

目を覚ました浅茅が泣き出した。

「愛し子よ…」
最後の言葉は、冷たい風に流れて消えた。

二人に背を向け、晴源は歩み去った。
右の足を、少し引きずりながら。

最後まで外れなかった晴明の縛めが、晴源の足を灼いたのだ。
それゆえ、浅茅の右足だけ呪印が施されぬままになった。

十年の後、晴咒の洞窟でそれが浅茅を救うことになるとは、
皮肉な巡り合わせと言うべきか。
それとも天の配剤と言うべきなのだろうか。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛  2.刻・迫る  4.土御門  5.思いを抱いて・前編  6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑  8.裏鬼門  9.禍事  10.蝕み  11.暗き水
12.冥き国  13.欠けた力  14.亀裂  15.神子  16.悲しみの日
17.狭間  18.花の還る場所

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一応、浅茅の年齢は数え年ということで。
最後の晴咒の洞窟云々の話は、 「雪逢瀬」第14話 のエピソードです。
ただし、この回だけ読むと、著しいネタバレになります。


2010.5.19  筆