花の還る場所  第四部

4.土御門


龍の宝玉は仄かな熱を帯び、淡い色の光を宿して脈動している。

憂い顔で宝玉を見つめていた藤姫は、古参の女房の視線に気づき、
静かに振り向いた。

女房達に宝玉の異変が見えないことは、分かっている。
だから、宝玉に向き合う自分の様子が
どれほど奇妙に映っているかも、よく心得ている。

しかし、あどけなさの残る年頃とはいえ、藤姫は左大臣の娘。
驚いたりうろたえたりする様は、微塵も見せない。

「何でしょう?」
短く問うと、女房は深々と頭を下げた。



土御門は今、鬱々とした気分に覆われている。

先頃の事件は、まだ記憶に生々しい。
主である左大臣が怨霊に襲われ、次いで疫神に取り憑かれたのだ。
そして得体の知れぬ怨霊が、伏せった左大臣の枕辺で暴れ、建物の一部を破壊した。
巻き添えになって怪我をした者の数は十指に余る。

偶然…土御門に来合わせていた安倍の陰陽師が疫神を祓ったことで、
重篤な病にまでは至らなかったとはいえ、今の左大臣は病み上がりの身。
内裏への出仕も思うに任せぬ状態だ。

政の場にあっては、左大臣の不在は右大臣にとっての好機。
右大臣の内裏での影響力、朝儀の場での発言力は日を追う毎に増しているという。
祓えの儀式を成功裏に終えたなら、その権力はさらに強いものとなるはず。
早晩に左大臣と肩を並べるほどの権勢になることであろう。

今日もまた左大臣は、館で休んでいた。
だが幾分気分がよいのか、文机に向かって執務の筆を執っている。
そこに、女房に先導され、藤姫が呼ばれ来た。

藤姫は父の様子に安堵するのと同時に、叱責を覚悟した。
実を言えば、思い当たる節は多々あるのだ。
しかし、全て承知の上でやったこと。
見苦しい言い訳などするまい…と自分に言い聞かせる。

だが、父から掛けられた言葉は、思いもよらぬものだった。
「少しやつれたか、藤」

文机を立ち、近くに向き合って座った父の顔こそ、ひどくやつれている。
「私は…」
藤姫は、気遣わしげに自分を見つめる父の表情に、言葉を失った。
「食事を摂らぬ日があると聞いたが、気がかりでもあるのか」
優しい言葉を聞き、大きく開いた藤姫の瞳が今にも泣き出しそうに潤んだ。

左大臣は心の内で嘆息する。
――星の一族の宿痾か。
裳着もすまぬ年頃というのに、母に似て思い詰めた目をしている。

同時に、怒りと苛立ちも禁じ得ない。
年端のいかぬ我が娘が、このような目をすることに。
それほどに重い荷を、なぜ負わねばならないのか、と。

しかしその一方で、左大臣としての冷徹な視線もある。

病の床にある間にも、左大臣の元には様々な情報がもたらされていた。
その中には、安倍の高弟が禁苑を侵して逃走した、というものもあった。
件の弟子は、この土御門で疫神を祓い怨霊を退けた陰陽師と同じ人物であるという。

名を聞き、左大臣にはすぐに分かった。
その陰陽師は八葉の一人であり、龍神の神子と結ばれた者であると。

昨年の冬、龍神の神子が館に滞在していたこと、
その折に一対一で相対したことは、忘れ得ぬ記憶となって残っている。

あの時は、剛なる政の正道を以て、神子の願いを退けた。
しかし神子が座を立った後には、敗北感に満たされた自分がいたのだった。
内裏での権力を巡る争いの中では、決して味わうことのない、
柔らかな、ひたひたと心に染み入る敗北感であった。

だが、それはあくまでも過去のこと。

左大臣をその地位まで登らせたある種の勘が、
一見別物と思える様々な出来事、事件、人物の相関に繋がりを見出している。
さらには、その背後に右大臣の存在があるであろうことも、
そこに、かつての陰陽家である大津の影が見え隠れしていることも。
既にして、その裏付けを取るべく、左大臣はその人脈を使い、
右大臣と大津に通じる者の顔ぶれをおおよそ掴んでいる。

人の心は利を求め、移ろうもの。
右大臣側が決定的に有利となれば、次々と追随する者は増えていくことであろう。

――そうなるか否か、要は祓えの儀式にある。
左大臣は、そう結論づけている。

対立の構図は、誰の目にも明らかだ。
左大臣に対するのは、右大臣と大津――。
かねてより、左大臣と結びつきの深い安倍家は中立の立場だ。
しかし……

袖に隠れた藤姫の小さな手が、かすかに震えているのが分かる。
だが、真っ直ぐに上げた青白い顔に、怯えの色はない。

家人、女房達から聞き及ぶところによれば、
藤姫は頼久を通じ、かつての八葉と頻繁に連絡を取り合っているという。
そして時には、何某かの金品をも、持たせることがあるという。

八葉の中には、先帝の御代に右大臣が利用し、
それを厭うて僧籍へと入った法親王がいる。
帝の懐刀である左近衛府少将がいる。
まだ昇殿は許されぬ身分ながら、将来を嘱望される有能な治部少丞がいる。

よい縁だ。排する必要はない。
否、このような時こそ、縁を深める好機と捉えるべきであろう。
龍神の神子も、逃げている安倍の陰陽師とても。
八葉の絆は、侮れぬ。
左大臣として、氏の長者として、龍神の神子を介しての帝との繋がりは、
続けるが吉だ。

だが、藤姫の目的は何か。
左大臣として、父として、知らねばならない。

「藤の憂い顔を見るのは、とても辛いものじゃ」
「ご心配をおかけしてすみません。けれど、私は大丈夫です」
「すまぬな。女房達から、藤が元気がないと聞き及んでいたというのに
今日までなかなか話をすることもできなかった。
病の身とはいえ、今朝廷は何かと忙しくてな。
藤も知っておろう? 近々、大きな祓えの儀式があるのじゃ」

藤姫の肩が強張り、手がぴくんと動いた。
それを見逃す左大臣ではない。

やはり…という思いと共に、左大臣は言った。
「今、顔が曇ったぞ、藤」

藤姫は、覚悟を決めた。
いつまでも隠しておくことはできない。
父の怒りは、自分が全て受ければよいのだ。
問われたことは、答えよう。

ただ一つのことだけは…秘めたままに。

「藤は、祓えの儀式が心配なのじゃな」
藤姫は一瞬息を止め、次にこくんと素直に頷いた。

左大臣は、御簾の外に向けて小さく片側に首を振った。
部屋の周囲に控えた人々が、退いていく。

「人払いをした。心おきなく話すがよいぞ。
だがまず、一つだけ聞いておきたい。
そなたはまだ、龍神の神子に仕えているのか?」
「はい。それが星の一族の務めにございます」
「京の祓えの儀が、神子と関係があるとは思えぬが」
藤姫はしばし考え、やがてしっかりとした声で言った。
「確たる証もないことですので……詳しくはお話できません。
けれど、京に禍事が迫っていることは本当です。
それがどういうものか、祓えの儀式の日に明らかになるのでは…と。
神子様と八葉の方々は、その禍事を止めようとしているのです」

「頼久をあちらこちらに走らせているというが、そのためか」
藤姫は身を縮めて答えた。
「はい」
「検非違使庁の追っている安倍の陰陽師を
手助けしているというのは、まことか?」
「…はい」
「それもまた、禍事を止めることに通じると?」
「はい、その通りです」

「祓えの儀式は、粛々と挙行せねばならぬのだぞ、藤」
「承知しております」
「儀式は、畏れ多くも帝自ら臨席される神聖にして冒すべからざるもの。
それも分かっておるのだろうな」
「もちろんです」
「ならば、儀式に一切の邪魔立てはしないというのだな」
「はい。神子様と私達の願いは、儀式を止めることではなく
京に安寧が戻ることです」

「京の安寧…それこそが、儀式の目的ではないのか。
なのに、藤がそのように思い詰めているのは、なぜじゃ。
もしやして、儀式が無事にすまぬかもしれぬと?」

小さな唇をきゅっと噛みしめ、藤姫は苦しげに頷く。
「…はい」

確たる証もない――と、言ったそばから、この様子。
まだ何かがあるのだろう。
そうでなければ、八葉の者達も動くまい。
しかも、頼久まで使いおって…。
左大臣は再び、心の中で嘆息した。

頼久は、源の武士の中でも特に優れた腕の持ち主であり、
左大臣直属の配下でもある。
以前は、帝からの密かな下命があったからこそ、八葉の任にも当たらせたし、
特別に別行動を許してもいた。
だが決して、藤姫の下につけたわけではなく、
それは頼久自身、よくわきまえているはずなのだが…。

この館の主であり、左大臣である父親に黙って、
密かに事を謀っていた藤姫を止めるか否か。
何しろ、朝廷を上げての儀式に関わることだ。
たとえ儀式に手出しはせぬと藤姫が誓ったとしても、
変事が起きてからでは遅い。

しかし既に左大臣の腹は決まっていた。

「藤よ、そのように悲しげな顔をするな。父はお前の味方じゃ」
藤姫が、驚いて眼を瞬く。
左大臣は言葉を続けた。
「そうだ、まず、儀式の警護に当たる武士の選任は頼久に任せよう。
誰がそこに混じったとて、問題にはせぬ。どうじゃ?」
藤姫の顔が、ぱっと輝く。
「はい!」
「他にも、この父に助力できることがあるなら、遠慮無く言うがよい」
「ああ……ありがとうございます」

藤姫に、無邪気な笑顔が戻った。
それを見て、父親が嬉しくならぬはずがない。
左大臣は、病み上がりの少し掠れた声を張り上げた。
「唐菓子をこれへ」
そして藤姫に向かい、まるで幼子を相手にしているように言い聞かせる。
「菓子を食べても、夕餉の膳は残してはならぬぞ」
「はい」
「おお、よい返事じゃ」
「まあ、藤はもう童ではありません」
「ああ…そうであったな」

束の間、土御門に明るい笑い声が戻った。



夜が訪れ、藤姫は再び龍の宝玉と向き合っている。

約束通り、夕餉は残さずに食べた。
父を心配させてはならないから。

父から饗された唐菓子の味を思い出すたびに、
甘く美味なその菓子を自分一人が味わったことに、小さな心が痛む。

――神子様に…届けたかった。

泰明と共に身を潜めて暮らす日々は、どれほど辛いのだろうか。
自ら動けぬことが…、自分の非力が口惜しい。

藤姫は、龍の宝玉を丁寧に布で包み、箱に入れて棚に収めた。
その隣には、占いの道具が置かれている。
ぶるっと身震いして、藤姫は道具から目を逸らした。

父に言わなかった、ただ一つのこと…。

どこで間違えたのか…と訝しんで、幾度占い直したことだろうか。
だが、その度に結果は同じ。

祓えの儀式の日を境に、その先の未来が消えているのだ。

龍神様……神子様にどうか、お力を…。

小さな手を合わせ、藤姫は夜闇の向こうを見つめて、
ひたすらに祈った。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛  2.刻・迫る  3.破戒  5.思いを抱いて・前編  6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑  8.裏鬼門  9.禍事  10.蝕み  11.暗き水
12.冥き国  13.欠けた力  14.亀裂  15.神子  16.悲しみの日
17.狭間  18.花の還る場所

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※左大臣が龍神の神子と相対した、という部分は、
「雪逢瀬」第5話 のエピソードによるものです。

2010.05.29 筆