虚空に響く…音のない音
寄せては返す波が
静かに満ちるように
空なる世界を満たしていく
響きの名残に耳を澄ませると
手のひらに乗せた淡雪よりもはかなく
消えてしまう
なのに、響きは耳に届く
聞こえない音は
いつまでも鳴りやまない
どこから来るのだろう
…こんなに小さい音なのだから、
きっととても遠くから…
それとも、私の中から
「神子…」
ああ…泰明さんが呼んでいる
「どうした、神子!」
泰明さんが心配している
眼を…開けなくては
「返事をしろ、あかね!!」
頬に触れる、ほっそりとした指の感触。
肩を支えてくれる腕。
少しずつ感覚が戻り、あかねが重い瞼を開くと、
眼の前に泰明の顔があった。
あかねを見つめる透き通った瞳には、隠しきれぬ狼狽と怯えの色。
ごめんなさい
私なら、大丈夫
「は…い」
にっこり笑おうとするが、身体に力が入らない。
顔を上げているだけで、ひどく辛い。
あかねは、頭を泰明の胸に預けた。
あたたかい…鼓動
「…神子」
泰明の長い髪が、あかねの顔にかかる。
あかねは少し顔を傾けて、
そのつややかな髪の一房に唇を押し当てた。
こうしていても
まだ…あの音は…響いている
「大事ないか、神子。今のお前はまるで…」
――消えてしまいそうだ…
と言おうとして、泰明は言の葉を途切らせ、あかねも息を止めた。
二人とも、同じ既視感に捕らわれている。
去年の物忌みの日……。
あの時と同じなの?
龍神様が呼んでいるの?
でも、鈴の音は聞こえない。
私の中に感じた大きな力も、ない。
「神子、お前が愛しい」
あかねをきつく抱きしめた腕が、震えている。
そんなに悲しい声を出さないで
そんなに震えないで
だって……
「泰明さん…心配しないで…あの時とは違う」
「神子」
「今は、こんなに泰明さんと…近いから」
耳元に唇を寄せて、
愛の言葉をささやき交わせる
互いのぬくもりを感じ合える
「私から離れるな、神子。
何があっても、私はお前を守る」」
「ありがとう…泰明さん」
私も…あなたを守ります
「えいっ! とおっ!」
月のない夜。
星明かりの下で、イノリが剣を振っている。
武士の装束を纏い、その手に握っているのは、少し刀身の短い剣。
鍛冶の師匠が持たせてくれたものだ。
装束は、イノリに合わせて袖が少し詰めてある。
側で見ていた頼久が言った。
「ここまでにしよう。いい形になっている」
その言葉に、イノリは剣を収めると、かしこまって頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「折り目正しい所作も身についたようだな。
これなら、武士団に混じっていても目立つことはないだろう」
「あ〜、でもやっぱり武士ってのは疲れるぜ」
褒められたばかりというのに、イノリは大きく伸びをした。
頼久は、思わずくすりと笑ってしまう。
「イノリにとっては初めて尽くしだ。無理もない。
だが、短い間で本当によくやった」
「そりゃあ当然だって。
オレが鍛冶場を抜けることを、お師匠様は特別に許してくれたんだ。
しかも、こんな立派な剣まで貸してくれてさ…がんばるしかないじゃん」
イノリは腰に差した剣にそっと手を当て、真顔になって言う。
「でもさ…剣て、重いんだな」
頼久はイノリの視線を受け、ゆっくりと頷いた。
「剣は重い。だが、その重さを知らなければ、武士ではない」
剣は武士の覚悟だ。
剣で断ち斬った者の無念も、恨みも、罪も、全て身に受ける覚悟。
己が斃れる側となる覚悟。
だからこそ、武士が剣を捧げるのは、命を捧げることと同じ。
「オレ、今まで、剣を持つヤツのことなんて考えたこともなかった。
ありがとな、頼久」
イノリはぴょこりと頭を下げた。
先ほどのかしこまった形よりも、
イノリにとってはこちらの方が、素直な気持ちを表わしている。
唐突な礼の意味を、頼久は悟った。
これは、イノリの鍛冶師としての覚悟の言葉なのだと。
どちらからともなく、空を見上げた時、
暗い木々の向こうに流れ星が光った。
「儀式の前夜に彗星とは…」
不吉の予兆にかすかに眉を顰めた頼久に、
あっけらかんとしてイノリは言った。
「気にすることないぜ、頼久。
詩紋が言ってたけど、あいつの世界じゃ、
流れ星は願いを叶えてくれる吉兆なんだ」
「詩紋が?」
「ああ、だからオレ、今願い事をしてみたんだ」
「何を願った?」
「決まってるだろ、そんなの…」
「儀式のことか」
「違う。その先のことさ」
「藤姫様の占いか」
「そうさ。藤姫の占いにはずいぶん助けてもらったけど、
今度ばかりは当たったら困るじゃん。
だから、占いが当たらないようにがんばるからなって」
「それは願いではなく、誓いだと思うが」
「あ…そうか。…でも、まあいいじゃん」
抑えた笑い声がしばし続いた後、二人は源氏の居館へと戻っていった。
それぞれの決意を胸に……。
――天真がいたなら、同じことを願うだろう。
私もまた、そうだ。
自らが死力を尽くすことなくしては、何も得られはしない。
今は遠い友に、私は誓う。
皆で力を合わせ京を守った日々を、無に帰すことはしない。
――詩紋のやつ、今頃どうしてるんだろうな。
毎日、菓子をたくさん作って、楽しくやってるといいけどな。
お前の菓子、美味かったぜ。今でも思い出すくらいだ。
…今のあかねに、食べさせてやれるといいな。
オレ達、あんなにがんばったのにさ、
また京はひどいことになるかもしれないんだ。
でも、心配するなよ。
このイノリ様が、お前の分までがんばるからさ。
―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛
2.刻・迫る
3.破戒
4.土御門
6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑
8.裏鬼門
9.禍事
10.蝕み
11.暗き水
12.冥き国
13.欠けた力
14.亀裂
15.神子
16.悲しみの日
17.狭間
18.花の還る場所
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2010.06.11 筆