花の還る場所  第四部

17.狭 間



       その願い叶う時、人の身は時空の狭間に散り
       汝は汝を失う


時空の狭間――

時もなく音もなく、上もなく下もなく、暑さも寒さもなく
淡い光ばかりが満ちた時空の狭間を、
あかねは流されていく。

その流れは時に激しく、時に速く、
滔々たる水の流れに似て逆らうことを許さない。

先ほどまで闇に覆われた神泉苑にいたのが、
遠い夢のようだ。


       暗き力は強い


――龍神様にとっても、
時を動かし、太陽を戻して穢れを祓うのは
とても大変なことだったのだろう。

私の中に流れ込んできたのは、とても大きな力の奔流。
圧倒されて、そのまま潰れてしまいそうで、
意識が押し流されて……。

切れ切れの意識の中で、
龍神様の言葉の通り、
私は時空の狭間に散るのだろう…と思っていた。

でも、私を呼ぶ声が、
千切れそうになる心を繋ぎ止めてくれた。

その声に導かれて、私は私に戻ることができた。
愛しい人の声が、私を守ってくれた。

「泰明さん…」
虚空に手を伸ばすと、
『心細いのか、神子』
見えない指が、頬に触れるのを感じる。
その指に掌を重ねても、そこには何もない。
だが、あたたかな気が自分を包んでいるのが分かる。

「泰明さん、一緒に来てくれてありがとう…」
唇に、柔らかな感触。

「でも…ごめんなさい。もう帰れないかもしれないのに…」

ぎゅっと抱きしめられたのが分かる。
まるで耳元で囁かれたように、泰明の声が心に流れ込んでくる。
『問題ない。私は最後までお前を守る。
そのために、私は在るのだから』


ぃぃぃぃんん……


遠く微かに、音が響いた。
人の声だろうか、それとも……。

「…この光は…泰明さんの宝玉?」
あかねが大きく目を見開いた。

泰明の右の頬が、遠い音に応えるかのように疼き、
宝玉が共鳴しているのが分かる。
身に宿る宝玉は時空の彼方にあり、魄を持たぬ今となっては、
体の感覚など意味をなさぬはずなのに。





       汝は時空を繋ぎ、八卦は満ちた


「つっ…! まただ。何があったんだ、いったい」
天真が左の腕を押さえた。
「私も、何だか胸騒ぎがする…」
蘭が周囲を見回す。
「これって…イノリ…くん?」
詩紋が手の甲を耳に押し当てた。

「頼久! 俺に用があるなら、
回りくどいことは止めて直接話せ!」
「無理だよ、天真先輩。だってここは…」
「お兄ちゃん、落ち着いて」

「これが落ち着いていられるかよ!
ここは時空の狭間なんだぞ!
いきなり宝玉が戻ったんだぞ!」
「戻った宝玉がちくちくしてる。 前はこんなことなかったのに…。
京で何かが起きたのかな」

天真は拳を握りしめた。
「俺達は、さっき京を出たばかりなんだぞ。
そんなにすぐ、大事件が起きたっていうのか」
詩紋は困ったようにうつむきながら考えている。
「さっき…って言っても、
ぼく達がそう感じているだけなのかもしれない…」
「どういうこと?」
「うまく説明できないけど、違う世界に繋がっている時空の狭間に
『今』とか『さっき』とかあるのかなあって…」
「何だよ、それじゃ、俺達がせっかく帰っても、
浦島太郎みたいになるってのか?」
「それは…違うと思うわ」

「アクラムの野郎に勝って、京は平和になったんじゃねえのか?
だから、宝玉も白い玉に戻ったはずだ。
なのに、帰り道でこれか? 龍神の野郎、何やってるんだ」
「あかねちゃん…大丈夫かな」
「私もそれが心配で」

天真は、くるりと回れ右した。
「くそっ! ここで話していても何も分かりゃしねえ。
俺は京に戻る!」
「ぼくもあかねちゃんが心配だからそうしたいけど…」
「お兄ちゃん、京に戻るには、どっちに行けばいいの?」
「あ…」

上もなく下もなく、もちろん道標もない場所を、
彼らが迷わず進んでこられたのは
「まっすぐ光に向かえばいいって、龍神様が言ってる」
という、あかねの言葉に従ったからだ。

ほの明るい時空の狭間に見つけた光射す一画を目指し、
天真、詩紋、蘭の三人は歩いてきたのだが…

「おい…」
後ろを向いたまま、天真が固い声で言った。
「さっき俺達が通った時には、こんな危ねえ流れはなかったよな」

詩紋と蘭が振り向くと、これまで微風一つ吹かなかった虚空に
いつの間にか激しい流れが生じていた。
三人の眼前を横切り、視界いっぱいに続いている。

「怖い…お兄ちゃん」
「迂闊に近づかない方がよさそうだ。
蘭、お前は詩紋とここにいろ」

宝玉が強い光を放った。

「…っ! 頼久…誰を探すんだ?」
「あ…イノリくん?」
「友雅の声も聞こえるぜ。あいつがマジになってる」
「鷹通さんだ…どこから聞こえてくるんだろう」
「永泉か? じれったいやつだな。はっきり言え!」

詩紋がぶるっと震える。
「天真先輩…泰明さんの声だけが聞こえない」
「あかねは…泰明と一緒にいるはず…だよな」

「あかねちゃん! 泰明さん!」
詩紋は思わず叫んでいた。
蘭があえぐ。
「お兄ちゃん、何かが…近づいてくる。
……人…だわ。あ…もしかして…」

天真は激流の彼方に目を凝らした。
詩紋が手の甲を押さえる。
「宝玉が、熱い」

「あかね! 泰明!」
天真は流れに向かって駆け出した。





――二人を呼ぶ仲間の声。

『聞こえるか、あかね』
あかねは頷いた。
「みんな…みんなが呼んでいる。
あ…! 天真くんと詩紋君…蘭もいる。
わあ! 天真くん達は、もしかしたら、この時空の狭間に?」

あかねは周囲を見回す。

だが泰明はすでに、自分達を乗せた流れの彼方にある、
天真と詩紋の二つの宝玉を見つけていた。
そしてすぐ、宝玉が動いていないことに気づく。
つまり彼らは、流れの外にいるのだ。

あかねは弾んだ声で言った。
「時空を繋いだ…って、こういうことだったの。
龍神様の言葉はいつも不思議…」
『ああ、そうだ。 神子の思いが届き、八葉は再び力を得た』
あかねはにっこり笑う。
「よかったね、泰明さん。 これで、天真くん達と一緒に帰れるよ」

少しの間を置いて、泰明はあかねを抱きしめた。
『神子…私をずっと…覚えていてほしい』

あかねはびくりとして、光を増した泰明の宝玉に向かって叫ぶ。
「泰明さん…何を言っているの!?」

答えは返らない。

泰明は、あかねと天真達との距離を見極めている。

流れは強く速く、生身の身体で逆らうことはできない。
だが、今の泰明は実体のない魂のみの存在だ。
であればこそ、残された人ならぬ力を出し尽くせば、
あかねを流れの外に出すことができるはず。

だが、その機会は一瞬だ。
時を誤れば、あかねは遠く離れた場所に一人、取り残されてしまう。

「あかねちゃん! 泰明さん!」
詩紋が、声の限りに叫んでいる。

「詩紋くん!」
あかねも叫ぶが、その眼には、まだ三人の姿は映っていないだろう。
しかし泰明には、天真と詩紋の宝玉がはっきりと見えている。
流れの速さと位置関係も把握した。
己の力を、宝玉の一点に集中させる。

『神子…お前は戻れ』

あかねが怯えた眼で、宝玉の異様な輝きを見た。
「いや…泰明さんも一緒に…」
『神子と一緒に、ここまで来た。
来て…よかった』
「だめ! ずっと一緒じゃなくちゃ…」

『神子…愛している』
震えている唇に、そっと触れる。
「泰明さん!!」

その一瞬を、泰明は誤らなかった。

時間が長く引き延ばされ、
その間に起きた全てが、泰明の眼にゆっくりと映し出される。

あかねが、抗うようにもがきながら流れの外へ出ていく。
あかねを押し出すことは、自らを流れの中に押し戻すこと。
泰明は、急流のただ中へと巻き込まれ、遠ざかる。

こちらを見つめ続けるあかねの瞳から、大粒の涙がこぼれる。

激流のそばにいた天真が、あかねを抱き留めた。
詩紋と蘭が駆け寄ってくる。

四人の姿が、光の中に遠ざかる。

いつか…遠い日に、このような光景を見たことを、
ふと思い出す。
まだ京を巡っていた頃、あかねが天真と詩紋を伴い、
眩しい陽の光の中を歩み去っていく光景。

これは、いつか訪れるはずだった、別れの光景。

「泰明さん!!!」
流れを追って走りながら泣き叫ぶあかねの声が、
心に突き刺さる。

     神子…泣いてはいけない。
     お前は、お前の在るべき世界に戻るのだから。

     何よりも美しく、誰よりも愛しい…
     あかねという名の

     花の還る場所に



時空の狭間に、鈴の音が響いた。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛  2.刻・迫る  3.破戒  4.土御門  5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編  7.神泉苑  8.裏鬼門  9.禍事  10.蝕み
11.暗き水  12.冥き国  13.欠けた力  14.亀裂  15.神子
16.悲しみの日  18.花の還る場所

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よけいな一言なので、改行しまくって下げました。

泰明さんの「いつか見た光景」というのは、
50000打お礼 「花別離」で描いたシーンのことです。

いつか、時空の狭間での別れの情景に辿りつく!と
思いつつ、書いていました。
あの時から今日のアップまで…長かったような短かったような。



2010.07.24 筆