宗主が禍々しい姿に変じていく。
輪郭は人の形をなぞっているが、顔も手も装束も、蠢く闇の影。
身の丈は人の高さを優に超えている。
貴族達は、こけつまろびつ先を争って逃げ出した。
「ひいいっ! 宗主に取り憑いているのは鬼門の御霊か」
「時平殿の名も口にしましたぞ。あの雷はきっと、かっかか菅公の御霊じゃ」
「ということは、二柱の御霊がここにいると…」
「は…早う逃げましょうぞ」
しかし、高御座の両翼に設けられた広い露台の周囲は篝火もなく暗い。
地面へ下りる階に一時に大勢が殺到し、押されて幾人も転げ落ちる。
さらに階を下っても、くるぶしまで浸す水に足を取られて、思うように動けない。
「灯りを…麿の足元に灯りを!」
そう叫ぶそばから、すてん…と転ぶ者もいる。
「祟道帝よ、道真公よ、御魂は神の座に在るのではないか。
心を尽くして祀られてなお、何故人々に仇為すのか」
永泉が遠慮がちに袖を引っ張るが、帝は宗主に真向かっている。
我を名で呼ぶは 愚かなり
我は親王であり 親王に非ず
大宰権帥であり 大宰権帥に非ず
魂を二つに引き裂き 神祀りし 帝の称号を与え
鎮めたと信じるは愚かなり
我は 全ての神祀りされし者
斃れし者
捨てられし者
塵芥と成り果てし者
京に滅ぼされた 唯一であり 数多である
「御霊が…このような形で蘇るとは」
帝は拳を震わせ、ぐっと唇を噛みしめた。
「く…苦しい…」
たちこめる瘴気と吹き付ける怨念に、永泉は息を詰まらせる。
魄は滅しても 魂は鎮まらぬ
地の底へ滴り落ち 冥き国へと沈み行き
掬い上げられることなく 忘れ去られ
陽の下に驕る者は
踏みにじったものどもを省みることなく
己の愚かなるを知らず
我 生者に冥き地を与えん
生者よ 我に汝が地を与えよ
その時、
「させぬ…」
何かが永泉の懐の中で呟いた。
…と思った瞬間、その「何か」は眩い光を放って空中に飛び出した。
その光に宗主が怯み、後ずさりする。
「や、泰明殿…?」
「何か」とは泰明から渡されていた護符なのだと理解した永泉に、
それは光を放ちながら、ぶっきらぼうに言った。
「今のうちに帝を遠ざけろ。これはただの札。長くはもたぬ」
「は、はい」
「安倍には二度までも助けられた。礼を言う」
「急げ」
しかし、帝と永泉が一段高い台座から飛び降りた時、
宗主は凄まじい声で咆哮し、長い腕を振り上げて札を叩き落とした。
札に触れた部分がしゅうしゅうと溶けるが、すぐに闇が這上り、
元の形に戻っていく。
現世の帝よ
逃がさぬ
光が潰え、空の太陽はさらに欠けていく。
宗主は黒い水を滴らせながら一歩二歩と進み、
腕を伸ばすと黒い指を帝にぴたりと向けた。
残った衛士が矢を射かけるが、意に介する気配もない。
膝まで上がった水をかき分け、友雅が走る。
鷹通が左大臣の元から引き返す。
頼久とイノリが、武士団を離れて駆ける。
しかし、彼らの足を留めようとしてか、黒い水が逆流している。
「遠いが、ここから止める!」
泰明の術が宗主に向かって水上を走った。
しかし宗主の支配下にある水は、厚い壁となってそれを阻む。
「ならば、直接当てるまで!」
空中に桔梗印の光を放つが、高く吹き上がった水がその光を消し去った。
万事休す。
――今ひとたび、この身で術を受ければ…
永泉が宗主に向き直った。
その時、
「もう止めて! 父さん!」
場違いな子供の声が響いた。
宗主と高御座の残骸の間に、腰まで水に浸かりながら、
男の子が両腕を広げて立っている。
立ち塞がっている…つもりのようだが、
男の子はあまりにも小さく、対する宗主はあまりにも巨きい。
ひらひらと、何かの札が子供の手を離れて水に浮かんだ。
「浅茅…。いつ、隠形の札を入手した」
闇を通しても、泰明はその姿をはっきりと捉えている。
「無茶なことを…。やつはもう晴源ではないのだ」
無茶は承知の上で、浅茅はここに立っている。
武士の手から逃げながら、やっと隠形の術を成功させ、
ここまでたどり着いたのだ。
目の前には、見上げると首が痛くなるくらいに巨大な闇の姿。
洞窟で会った「晴源」の面影はどこにもない。
だが、「晴源」が…父が、禍々しく変貌していく様をこの目で見た。
一歩たりとも、退くつもりはない。
浅茅は巨きな影を見据えて叫んだ。
「ぼくはもう泣かない!
ぼくの中の、この黒くて冷たいものにも負けない!
痛くても、怖くても、ぼくは逃げない!
だから…だから、父さんも負けちゃだめだ!」
つい、と宗主の顔が動き、浅茅を見た。
与えられし力の意味を知らぬ 哀れな子よ
宗主は帝に向けていた腕を高々と振り上げ、無造作に振り下ろした。
……が、浅茅を叩きつぶすかと思われた直前、僅かに腕の動きが遅くなる。
「てやーっ!」
気合いの声と共に飛び込んできたイノリが、浅茅を抱えて横に倒れた。
空しく水を叩いた大きな掌が、二人を追って動いた瞬間、
「よくやった、イノリ!」
頼久の剣が真一文字に走る。
「水の中ではこちらが不利です! こちらに!」
鷹通が、貴族達の去った露座の上から叫んだ。
「よく見ているね、鷹通」
いつの間にか友雅が、その横にいる。
「主上…あの…」
永泉が小さな声で伝えた言葉に、帝は頷いた。
「強くなったな、永泉」
「いいえ、そのような…私は、あの…その…」
口ごもりながら、永泉は足早に戻っていく。
「高い場所には、私は上がるべきではないと」
「くだらぬ」
宗主の次の攻撃を剣で受ける頼久の隣に、泰明が並んだ。
両手を合わせ、呪を唱えながら大きく横に開くと、
宗主との間に淡く光る結界が出現する。
「イノリ、浅茅を連れて行け」
「ああ! すぐにオレも合流するぜ!」
イノリは、しょんぼりとうなだれた浅茅を、
武士も貴族もいない真っ暗な物陰へと引っ張っていった。
「イノリさん…ぼく…だめでした…」
浅茅は唇を噛みしめている。
イノリは驚いて聞き返した。
「何がだめなんだ? あんなやつの前に飛び出すなんて、
お前って、すげーなって、見直したばかりなんだぜ」
「ぼく、すごくなんかありません。
父さん…止まってくれなかった」
イノリは浅茅の両肩を持って揺さぶった。
「何言ってんだよ! 止まったじゃねえか。
すごい速さで腕が下ろされただろ? でも、途中から勢いがなくなっただろ?
違うか!?」
「え? そうだったんですか? ぼく、夢中で…」
「なんだ、気がついてなかったのか。でもさ…」
イノリはニッと笑って、続けた。
「信じろよ、お前の父ちゃんは、まだあの化け物の中にいる。
悪い宗主じゃなくて、お前の本当の父ちゃんだ。
お前もそう思ったから、ここに来たんだろ?」
浅茅はこくんと頷いた。
「待ってろよ。これからあの化け物を倒して、お前の父ちゃんを取り戻すぜ」
「…………イ…イノリさん…!」
「オレだけじゃ無理だけどさ、友達がいるんだ」
そう言って、イノリは振り返った。
篝火の揺らめく中、そこには宗主と戦う仲間達の姿がある。
「泰明さん…とか、貴族の人とか…ほっ法親王様まで…?
でも…父さん…あの怪物はとても強いから…」
イノリは拳を握った腕をぐいっと立てた。
「詳しくは言えねえけど、オレ達、ああいうのとやり合うのは慣れてんだ」
「な…慣れて?」
浅茅はきょとんとしている。
イノリは、ばん! と浅茅の背中を叩いた。
「心配するなって! このイノリ様がついてるじゃん!
お前はここでおとなしく待ってろよ。
水が上がってきたら木に登れ。分かったな!」
早口にまくしたてると、水からひょいっひょいっと足を上げながら
イノリは駆けていった。
仲間と共に戦うために。
日が欠けていく……。
土御門は恐慌に襲われていた。
すぐに灯りが点されはしたものの、外の異様な暗さに皆一様に怯え、震えている。
人払いの命令など構わず、藤姫の部屋には女房達が集まってきていた。
藤姫は顔の色こそ蒼白だが、落ち着いた声で、
恐怖の表情を隠しもしない女房達に、気をしっかり持つように、と語りかけた。
上に立つ者は、常に冷静でなければ…と、理解しているのだ。
「絵草紙を持ってきて、読んで下さい。
それから、御簾の中に文台を運んでもらいたいのです」
用事を言いつかれば、その間は気が紛れることも。
「ささ、姫様どうぞ」
すぐに用は果たされ、藤姫は御簾の内に入った。
「何をお読みしましょうか」
藤姫はすらすらと答える。
「皆で、一番面白いと思うお話を選んで下さい。
何が選ばれるか楽しみにしていますわ」
女房達は、「まあ…」「難しいこと…」と驚きの声を上げたが、
すぐに、「一番と言われますとやはり」「いいえ、私はこの」
などと賑やかに本の吟味を始めた。
藤姫にとっては本選びはただの口実だ。
だが、女房達への冷静な対応とは裏腹に、
その小さな胸は、不安に押しつぶされそうになっている。
文台に、懐に抱えていた龍の宝玉を再びそっと置く。
それは今、ただの白く丸い石。
日が蝕まれていくにつれ、光を失って沈黙してしまったのだ。
――このような時こそ、龍神様のお力が必要ですのに…。、
神子様、どうぞご無事で。
私は、祈るしかできないのでしょうか。
藤姫の大きな瞳に涙がいっぱいに溜まり、ぽろぽろとこぼれ出た。
だが次の瞬間、その瞳が驚愕に見開かれる。
一瞬のこと…であった。
何の前触れもなく、龍の宝玉が砕けたのだ。
内に向けて光を放ち、音もなく白い石は消えた。
後に残されたのは、淡い光を含んだ二つの宝玉。
行き場のない、地の青龍と地の朱雀の宝玉であった。
―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛
2.刻・迫る
3.破戒
4.土御門
5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑
8.裏鬼門
9.禍事
10.蝕み
11.暗き水
13.欠けた力
14.亀裂
15.神子
16.悲しみの日
17.狭間
18.花の還る場所
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2010.07.10 筆