花の還る場所  第四部

14.亀 裂


天地に陰の気が満ち、均衡を失った五行の流れは滞り、留まり、
龍脈の力は今にも消えようとしていた。

日の光を――陽の気を厭う宗主は、暗黒の時の到来を待っている。

帝に向けた言葉は、京の滅びを告げるもの。
『我 生者に冥き地を与えん
生者よ 我に汝が地を与えよ』

滅びを止めるためには、太陽が完全に姿を隠す前に宗主を倒さなければならない。

あかねと泰明達八葉は死力を尽くしていた。
だが、皆の抵抗を嘲笑うかのように、日が欠けるにつれて宗主の力は増していく。
激しい風が叩きつけ、瘴気が雨の如く降り注ぐ中、
四神を召喚しても、その力にかつての猛き強さはなく、
宗主に僅かばかりの痛手を与えるのみ。

そして、ついに時は至った。

太陽の残り僅かな光が、ゆるゆると欠けてゆく。
空を仰ぎ見たあかねの眼に、日輪の最後の光が映り、そして消えた。

その瞬間、轟音と共に大地が揺れる。
地を切り裂いて亀裂が丑寅から未申の方角へと走り、神泉苑を真っ二つに分断した。
暗く深い裂け目から、黒い瘴気が迸る。

全き黒日――暗黒が世界を覆う。

          開け

闇の中で宗主の声が、池の中へ…地の底へと下りていく。

「時は来たり」
「待ちわびた時が」
童子と童女が、沈みゆくその声を追って水底へと姿を消した。





黒日の少し前――
安倍吉平は馬を駆って神泉苑へと向かっていた。
馬は、鬼門の儀式場で警護に当たっていた武士から借りたものだ。
乗馬のできる安倍家の陰陽師が数名付き従っているが、
常ならぬ気を察してか、馬は怯えて思うように進まない。

異変に気づき、すぐに鬼門での儀式を中断した吉平の判断は正しかった。
日の蝕みが始まったのは、鬼門の儀式場を出てから間もなくのこと。
神泉苑のある洛中は、澱んだ瘴気に包まれている。
何かの異変…否、禍事が起きているのは間違いない。
父・安倍晴明に向けて打った式神が、何かに阻まれて
神泉苑に入り込むことができない、という事実が何よりの証拠。
晴明の力を誰よりもよく知り、信じている吉平だが、
馬の一足毎に不安が募っていくのを抑えることができない。

洛中への道すがら、火の手が上がっている家屋敷があった。
日の蝕みに恐慌を来し、暗闇に恐怖した者が後先を考えず
灯りを求めて火をつけたのだろう。
街中でも同様なことが起きているであろうことは想像に難くない。

そして、古来の記録にも稀な天の凶兆、全き暗黒が下りた瞬間、
吉平も大気がびりびりと震えるのを感じた。

地の底から何かが来る。
咄嗟に手綱を引くのと同時に、馬の蹄のすぐ隣で轟音と共に大地が裂けた。

その裂け目は黒い瘴気を吹き出しながら、
鬼門から神泉苑へと、一直線に走っていく。

馬が激しく嘶き、前足を高々と上げて暴れた。
瞬時に瘴気を避け、命を奪われなかったのは、
安倍家でも粒よりの、練達の陰陽師達だからこそ。

吉平は厳しい顔で、背後から続く裂け目を目で追った。
この亀裂が神泉苑で終わっている、と考えるのは楽観的に過ぎるだろう。
むしろその先…裏鬼門まで繋がっているとしても不思議はない。
となれば、時を経ずして京全体は夥しい瘴気に曝されることになる。

――儀式の中心…神泉苑が要だ。
「急ぐぞ!」
「はっ!」
黒日の下、安倍家の陰陽師達は再び馬を走らせる。





「何っ! 門が開かぬというのか!?」

神泉苑の門前では大混乱が起きていた。
宗主から逃れ瘴気を避けようと、門に殺到した人々が騒いでいる。
正面の大門だけではなく、全ての出入り口で扉が開かないのだ。
内に開く扉を池から溢れ出た水が圧しているのだが、それだけではない。
武士が数人がかりで丸太をぶつけて壊そうとしても木っ端一つ砕けず、
扉はまるで鎧にでもなったように固い。

「結界を張りおったか…」
晴明は呟いた。
その眼前では、空中に引きずり出された「宗主」が激しく瘴気を吐き出している。
両の手を伸ばし、宗主を縛したままで晴明は命じた。
「長任、門の結界を解くのじゃ。
まずは北門に向かえ。帝もそこから出られるはず」
「はっ!」
「手強き結界ぞ。手勢を選べ」
「承知!」

松明を掲げ、徘徊する魑魅魍魎を打ち払いながら、
長任達は池を回り込み、瘴気を吹き出す亀裂を越えて北門へと向かう。

しかし長任には予期せぬ…そしてさらなる難関が待ち受けていたのだ。

「わしをここから出せ! 今すぐにこの忌々しい場所から逃げるのじゃ!
ええい、皆何をしている。早う門を開かぬか!!」
北門の扉を、右大臣が激しく叩いている。
右大臣にぐいぐいと進み出られては門を壊すどころではないのだが、
場所を空けてほしい、という言葉を聞く耳は持たぬらしい。

「あのお…今、結界を解きますので少しお待ちいただけますか…」
おそるおそる話しかけた長任は、
「無礼者! 右大臣に待てとは何事か!」
と凄い剣幕で怒鳴られ、どうしたものかと困惑してしまった。

事態は悪化するばかり、一刻を争うのだ。
こうなったら処罰を覚悟で、右大臣殿に術をかけるしかない…。
泰明ならば誰であれ、邪魔する者は問答無用で弾き飛ばすのだろうが。

……嫁御殿、許して下さい。
もうすぐややこが産まれるというのに、私は獄に繋がれることになりそうです。

長任が悲壮な決意の元、印を結び呪を唱え始めた時、
恰幅の良い男が、つかつかと右大臣に歩み寄った。
そしていきなり右大臣の襟元を掴み、ぐいっとこちらを振り向かせるなり、
「しっかりせい、顕光!」
腹の底に響く声で一喝すると同時に、右大臣の横面を張り飛ばす。

ひぃぃぃぃっ……
誰もが声のない悲鳴を上げた。

「なっ何をするか、左大臣!」
よたよたと起き上がろうとする右大臣と、
「このような狼藉、いかに左大臣殿といえど…」
と言いかけた右大臣の家人を、左大臣は眼光鋭く睨め付けた。
「氏の長者として、心得違いの者を叱責したまで。
藤原の面目を保ってはならぬというか! 否やのある者は言うて来るがいい」
そして長任に向き直り
「頼んだぞ、安倍の陰陽師。帝が輿で待っておられる」
そう言って、自らは脇に退いた。

長任は丁重に礼を述べ、門扉に触れる。
と、その向こうから「長任か!」と声がかかった。
「おおっ、吉平様!」
長任は一瞬喜び、次に、吉平がここまで来ている意味に思い至る。
だが、言を費やしている時間はない。

「両面から結界を解くぞ、長任」
「承知! 今、人を遠ざけます」

大きな門扉に桔梗印が描かれていく様を見る左大臣の元に、
武士団の棟梁が報告に来た。
「塀にも結界が張られております。乗り越えることはできませんでした」
「そうか」
左大臣は短く答え、帝の輿の灯りを目指して歩き出す。
棟梁は松明を掲げて付き従った。
「頼久は苦戦しておるな」
「歯がゆきことにございます」
「それだけか」
「はい」
「呆れるわ。頼久によう似ておる」
「お言葉ながら、頼久が似たのではないかと」
「してやられた。この場はお前の勝ちじゃ」
左大臣の喉から、乾いた笑いが漏れた。

たとえ神泉苑を出たところで、状況はあまり変わらないであろうと、
左大臣は理解している。
あの不気味な化け物の目的は京の滅び。
あやつを倒せなければ、どこに逃げようと、遅かれ早かれ結果は同じだ。
龍神の神子の力が弱まっている今は、どうにも分が悪い。

しかし醒めた目で状況を見定めながらも、
左大臣は「その先」をまだあきらめてはいない。





黒い太陽を背に、宗主は大気を震わせて嗤っていた。

          名ばかりの龍神の神子
          弱き贄は もう要らぬ

          我に傷一つ付けられぬ 欠けた八葉も
          神子と共に滅び行くがいい

          最期に 見せてやろうぞ
          終わりの時を

池の中央に立ち、宗主はその掌を黒い水面にかざす。

          来るがよい
          ここが 我らが国ぞ

禍々しい声に応えるように、池が暗紫色の光を放った。
その光を透かして見れば、池の中には渦巻く雲海の如きもの。
雲の中、そこここに蠢くのは人の形だろうか。
脈動する光と共に、雲海はゆっくりとせり上がってくる。

ずずん…! 重い音を立て、地面が沈んだ。
おっとっと、とイノリがたたらを踏み、永泉が足元をよろめかせる。

あかねを包む光がすうっと暗くなっていく。
――空が…遠ざかる。
ううん、違う、私たちが沈んでいるんだ!

黒雲の海が上昇するにつれ、神泉苑はずぶずぶと地に潜っていく。
宗主は大きく手を広げ、泰明達六人を瘴気の壁で取り囲んだ。

「雨縛気!」
永泉の術が一瞬宗主の動きを止め、
その機を逃さず、泰明が壁を四散させる。
今はそれが精一杯。
あかねから流れてくる力は弱々しく、今にも途切れそうだ。

しかし――
欠けた日は再び満ちる。

全き黒日が続くのは僅かの間だ。
一番辛いこの時を乗り越えれば、必ず勝機は来る!

だが、泰明は気づいてしまった。
同じ時、晴明もまた、唇を引き結んで空を仰いでいる。

この黒日は、おかしい――
まるで…

          そうだ 地の玄武
          黒日は 終わらぬ

時が止まっているかのようだ…。

あまねく満ちる、この膨大な陰の気…。
陰は止める力だ。
晴源の「時」を止めたように、宗主は京の「時」をも…

          白日は もう戻らぬ
          今より先
          冥き国の民こそが 京の民

北門から歓声が上がった。
結界が外れ、門が開いたのだ。
帝の輿が門を潜り、続けて貴族達が我先にと出て行く。

          人は どこまでも愚か
          どこに逃げても 変わらぬ

宗主は、先ほどとは反対に、掌を天に向けてかざした。

と、空に神泉苑の池が現れる。
上と下…二重写しの同じ景色。

水の中で渦巻く雲間から、蠢く人の影が一つまた一つと浮かび上がる。
空の上で渦巻く雲間から、蠢く人の影が一つまた一つと下りてくる。
生きている時の形を模しているのだろうか。
老いも若きもあり、男、女、街人、貴族、無頼の徒、武士、
影は様々な輪郭をなぞっている。

地の底が震え水かさが増し、さらに大地は沈んでいく。
攻撃を仕掛けることもなく八葉と神子を見下ろしている宗主を前に、
なすすべのない怒りと無力感。

          人は 何もできぬのだ
          罪ある者も 罪なき者も
          あがき 泣いて 滅びるのみ
          我がかつて 滅びたように

「せめて、もう一太刀…」
「くそっ、何か方法はないのかよ」
「終わらない黒日とは…どうしたら」
「時を…止めるとはね…」
「何と怖ろしい力でしょうか…」

「時が再び動けば……!」
泰明は言葉を途中で飲み込んだ。

陰の力に抗するのは陽の力。
陽の力とは、龍神の力そのものではないか。

その時、暗闇に閉ざされた池の向こうから晴明の声が轟いた。
「泰明! 亡者にこの場を明け渡すか!!」
続いて、水面を薙ぎ払い、晴明の術の余波が打ち寄せる。

「お師匠…」

「あやつに手が出せずとも、亡者は一人残らず消し去るまでだ、泰明」
「お師匠様も私達も、まだ戦えます」
門を開いた吉平と長任が、役目を終えて戻ってきた。
「手勢は配したか、長任」
「はい、吉平様」
「うむ」
言うなり、吉平は晴明のいる岸辺に向かって気を放った。
軌跡が光の帯となり、晴明がその光を次の岸へと繋ぐ。
光は五つの場所を結び、池の上に桔梗印を描いた。

水から浮かび出る人の影、空から下りてくる人の影の動きが止まる。
「分かった、お師匠」
泰明の放った術が、影を一掃した。
「おお! さすがだ」
長任が感嘆の声を上げるが、これが一時しのぎであることは誰もが承知している。

          水は 映し 映される
          現世は 冥き世に
          冥き世は 現世に

宗主が腕を一振りし、桔梗印が吹き飛ぶ。
間髪置かず、再び光の帯が走り、桔梗印を描く。

「私達も、共に」
「ああ、できることがあるなら、全部やってみようぜ!」

八葉も加わり、終わらぬ黒日の下で絶望的な消耗戦が始まった。




   虚空に響く…音のない音

   寄せては返す波が
   静かに満ちるように
   空なる世界を満たしていく

   これは…龍神様の鈴の音
   龍神様が、私に話しかけている…

   でも、なぜ聞こえないの?
   八葉が欠けているから?
   五行の力が足りないから?

   分からない
   私はどうずればいいの?

   みんなが苦しんでいるのに
   何もできないの?

   京が滅んでいくのを
   見ているしかないの?

   お願い
   私にまだ神子の力が残されているなら
   どうか…私の思いを…!!!

あかねを包む光が、静かに五彩の色へと変わっていく。

「神子…殿?」
「あかね」
「神子殿…」
「これは」
「神子…?」

宝玉が一瞬、灼けるほどの熱を帯び、あかねから伝わる痛みを消し去った。
衝撃が走り抜け、頼久とイノリが胸を押さえる。

「神子っ! 止めろ…!」

泰明の悲鳴にも似た声は、あかねには届かない。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛  2.刻・迫る  3.破戒  4.土御門  5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編  7.神泉苑  8.裏鬼門  9.禍事  10.蝕み
11.暗き水  12.冥き国  13.欠けた力  15.神子  16.悲しみの日
17.狭間  18.花の還る場所

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2010.07.17 筆