花の還る場所  第四部

16.悲しみの日


太陽が蘇った。
眩い光が黒い影を追いやるにつれ、失われていた水が
池に沼に、再び静かに戻ってくる。

神泉苑にも柔らかな光が降り注ぎ、
黒い水は清らかな水となり、青い空を映してきらめく。
だが惨劇の痕跡は生々しく残り、
飛散した露台、折れた木々が各所に散乱している。

陰陽師達は、巨大な宗主が陽光の下、小さな人の形に戻っていくのを
遠巻きにしたまま、黙して見つめていた。

その形は、大津の宗主を名乗っていた安倍晴源のものだ。
もがき苦しみながら日の陰を求め、草の上を這う。
だがその動きは緩慢で、まるで陽の光を浴び続けるために、
自らの身体を押さえつけているかのようだ。
闇を求める身体と、それを留めようとする力。
晴源の中で二つの意志がせめぎあっている。

「晴源よ…お前は消えることなく生き続けていたのか」
晴明は歯を食いしばった。

「とどめを…」
「待て」
吉平が晴源に向けて印を結ぼうとするのを、晴明は手を上げて制する。

晴明の視線の先で、木の上から小さな子供が飛び降りた。
着地に失敗して尻餅をつき、「痛たっ!」と声を上げるが、
そのまま足を引きずりながら、晴源へと駆け寄っていく。

「我が子に見送らせてやるがよい」
晴明は、静かな声で言った。
そしてその場を離れ、白い光柱のあった場所へと歩み去る。



「父さん!」
晴源の頭上で子供の声がした。
草に爪を立て顔を上に向けると、血の流れている小さな丸い膝が見え、
ぼろぼろに破けた安倍家陰陽師見習いの装束が見え、
泥だらけの顔をした我が子の顔が見えた。

「勝った…のだな…」
かすれた声で問うと、浅茅は頷いた。
「お日様が照らしたら、膝から出ていったよ」
膝の痛々しい傷は、浅茅を飲み込もうとしていた闇が、
食い破って逃げたしるし。
そこに至るまで、幼いこの子は、どれほどの痛みに耐えたのだろうか。

「黒日の中で…一人で戦っていたのか」
「負けないって、父さんに約束したから」

晴源は眼を閉じ、激しく暴れる己の中のものを押さえつけた。

強くなったな、浅茅。
私も…ここで負けることはできない…。

          闇に戻れ
          心地よき闇に
          再びの時を待て

暗い声が楔のように容赦なく打ち込まれる。

          動け
動かぬ!!

          我が子を手にかけたいか
          童の一人など 残った力で…

その時、
「父さん、ぼく、一緒にいるよ」
小さな手が、草を掴んだ白い手をぎゅっと握った。

「浅…茅…」
「ずっと一人だったんだよね、父さん。
でも消えないで…がんばって…きたんだよね。
やっと会えたから…ぼくは一緒にいるよ」

しゃくりあげそうになるのを、浅茅は必死でがまんしている。
泣かないと言ったから、絶対に泣いてはだめだ。

目覚めぬ母の枕辺で、繰り返し自分に問いかけ、
母のやつれた顔に刻まれた歳月を思い、
洞窟での邂逅を考え続け、
迷いの果てにたどり着いたのは、
父と母から受け継いだこの身のまま、生きていくこと。
父と母の思いを信じること。

浅茅の手のぬくもりは、晴源の中にあたたかく満ちていく。

最期の力を振り絞り、晴源は立ち上がった。
そして震える手で、懐から小さな布にくるまれた器を取り出す。
雪の降る夕暮れ時、陥没した龍穴に降りて探し出したものだ。

晴咒の精髄を入れていた器を、晴源は陽にかざした。

――晴咒、これが太陽だ。
これが青い空、そして、優しく通り過ぎていくのが風…。
咒い、壊すことだけを教える身体の奥底で、私は願っていた。
私は、お前に見せてやりたかった。
この明るく…美しい世界を。

晴源は、池の向こうに泰然と立つ晴明に向き直った。
「お別れです、御師匠様」
晴明が、小さく頷く。

浅茅の顔を見つめると、赤子の時の面差しが重なる。
晴源は微笑んだ。
「さらばだ、浅茅」

ぐしゃぐしゃの笑顔で、浅茅は言った。
「さようなら…父さん」

青い空は、どこまでも透き通って、高い。

「さようなら…あなた」
一筋の涙が、安倍屋敷に伏せる皺深い女の頬を流れた。

「目覚められたか、母御殿」
行貞が立ち上がり、蔀戸を大きく開く。

浅茅の母は目を開き、外を見た。

そこには、晴源が最期に見た青空が広がっている。
同じ空を、浅茅は今、一人で見上げていた。





神泉苑の一画では、八葉が倒れた泰明を取り囲んでいる。

「泰明殿! しっかりなさって下さい!」
「泰明! 目を開けろよ!」
「泰明殿! どうされたのですか! 神子殿は!」
「何が起きたのだ。龍神が降り来たのは確かだが…」
「泰明殿……! こ、これは…」
倒れた泰明の側に膝をつき、その身体に触れた永泉が、
びくりとして手を離した。

「永泉様、どうなさいましたか」
「あ…あの…」
永泉は苦しげに眼を伏せ、振り絞るような声で言った。
「泰明殿の魂が…感じられないのです」

晴明が黙したまま歩み来て、倒れた泰明を見下ろした。
「泰明め、無茶なことをしたものじゃ」
その声には、苦渋が滲む。

「晴明殿、泰明殿は眼を覚ますのでしょうか」
「神子殿は、今どこに」
「あかねは無事なのか? 泰明は」
「晴明殿、これはいったい…」
皆が矢継ぎ早に問うが、晴明は眉間に深い皺を刻んだまま
ゆっくりと頭を振った。

「古来よりの言い伝えによれば、龍を呼んだ神子は消えるという。
それが真かどうかは誰も分からぬ。
だが、地の青龍と地の朱雀がこの地にいないままに、
神子殿は龍神を呼んでしまったのじゃ。
この地に戻ることはできまい」

「そ…そんな…神子は、そのような犠牲を払ってまで」
「神子殿…。私達は何もできなかったのですか…」
うなだれる永泉と鷹通を押しのけて、イノリがずいっと進み出た。
「晴明のおっちゃん、あんたの言ったことは一つだけ違ってる。
宝玉は確かに詩紋に戻ってるんだぜ。
オレには分かるんだ。な、頼久もだろ?」
「私も、天真の気が流れ来たのを感じました。
だがイノリ、天真も詩紋もここにはいない。
それもまた確かなことだ」
「何だよ、お前どっちの味方なんだよ」
「味方とかいう問題ではない」

「静かになされよ」
泰明の上に手をかざした晴明が低い声でぴしりと言い、
イノリは慌てて口を閉ざす。

晴明は短く呪を唱え、すぐに手を下ろした。
しばしの沈黙の後、皆を見回して重い口を開く。
「泰明は、魂と魄を切り離した。
魂がこの身体に戻ることはない」
「そ…そんな」
「何だよ、あかねと泰明と、二人ともいなくなっちまうなんて」

「魂魄離脱は、陰陽の術ではないのですか。
術ならば、戻ることは可能なはずです。
まして、泰明殿のような優秀な陰陽師であるなら」
「その通りじゃ。この術の要は、魂と魄を切り離すことよりも、
それを再び元に戻すことにある。
そのためには念入りな準備を施し、魄には魂と引き合う標を残すのが定め。
だが泰明は…」

永泉が消え入りそうな声で言った。
「戻るためのよすがを…残されなかったのでしょうか」

晴明は小さく頷いた。
「自らの魂を、魄から無理矢理引き剥がしたのじゃ」





太陽が元の姿になり、空は眩く照り輝いている。
待ち焦がれた陽光の中に訪れた悲しみは、あまりにも大きい。

晴明は、太陽の下に立つ晴源に視線を移した。
晴源がこちらを見て、何かを言った。
その声は聞こえないが、別れの言葉と分かる。

「お師匠様、門がまた開かないのですが、もしや…」
吉平がやってきて、控えめに問うた。
晴明は小さく苦笑する。
「そう、この晴明の仕業じゃ。
あやつを静かに逝かせてやりたくてな…」

そして、
『吉平よ、今は父と呼んでほしい』と心で願い、口に出しては、
「間もなく術は解ける」とだけ言った。
吉平と肩を並べて歩き出した後ろ姿に、隠すことのできない悲しみが滲む。

――弟子は皆、可愛い我が子じゃ。
今日は二人の子を失ってしまった。
長きに渡って生きておれば、このような日もある。
だが、幾度別れを経ようとも、この痛みに慣れることはない…。
今日は、何と悲しい日であろうか。





「私は…あきらめるのはいやです!」

沈痛な悲しみの気を打ち破ったのは永泉だった。
永泉は、掌の宝玉を見つめて言葉を続ける。

「宝玉は消えていません。
泰明殿の宝玉にも、まだ力が宿っています。
これは、神子がご無事だという証ではないでしょうか。
そして神子と共に、きっと泰明殿も…」

うつむいていた皆が、顔を上げた。
「永泉様…。この頼久、一番大切なことを忘れておりました」
「おう、永泉! ここであきらめたら男じゃねえよな」
「永泉様の仰る通りです。まだ希望はある。
何もしないで終わるわけにはいきません」
「青臭いのは苦手なのだが、そのようなことを言っている場合ではないからね。
絆というものを信じてみようか」
「そうだぜ、たまには若い気分になれよな、友雅。
オレ、詩紋にも呼びかけてみるぜ!」
「私も天真に、共に神子殿と泰明殿を探そうと!」

自らの宝玉に触れれば、あたたかく脈打つ力がそこにある。

八つに分かれた龍の宝玉は、宗主が倒れ太陽が戻ってなお、
それぞれの身に宿っている。
そうだ。
宝玉は、まだその目的を終えていないのだ。

泰明の身体に標がなくても、宝玉がある。
そして、皆に残されたあかねと泰明との唯一の繋がりは、地の玄武の宝玉だ。

心を一つに、皆は宝玉に願いをこめ、思いを託した。

一縷の望み…かすかな希望と奇跡を固く信じて。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛  2.刻・迫る  3.破戒  4.土御門  5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編  7.神泉苑  8.裏鬼門  9.禍事  10.蝕み
11.暗き水  12.冥き国  13.欠けた力  14.亀裂  15.神子
17.狭間  18.花の還る場所

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2010.07.21 筆