師弟の術が黒雲を貫き、真っ二つに裂いていく。
間髪入れず、晴明は掌を空へと差し伸べた。
そこから浮かび出た桔梗印に、晴明はふっと息をかける。
と、桔梗印は黒雲に向かって真っ直ぐに上がっていき、
厚く垂れ込めた雲に、稲妻のようにその形を映した。
ぼこり…と雲の一画が切れ、青い空がのぞく。
黒い雲間から陽光が射し、その真下の宗主の姿を明るく照らし出した。
その刹那、宗主は獣のような苦悶の叫びを上げた。
陽の当たらぬ方へ動こうとするが、雲が吹き散らされた青空の下、
広い水面の周囲に光から身を隠す場所はない。
――宗主が光を忌み嫌っている。
そのことに、泰明と晴明は以前から気づいていた。
宗主が館を出るのは日が沈んでから、と決まっていた。
さらには、昼間でも堂宇を閉め切り、護摩壇の火を灯りとして祈祷をしていた。
誰一人として日の下で宗主を見た者はなく、それは鷹通も泰明も例外ではない。
とはいえ、泰明が宗主の幻影と龍穴で相まみえたのは、まだ日のある頃だった。
袖を揺らす風が吹いていたことから、建物の外にいた可能性はある。
だがちょうどその時、洛西は雷雨に見舞われており、空には太陽がなかったのだ。
晴源に取り憑いたのが闇来のものであるならば、
そして、晴源と大津の宗主が同一人物であるならば、
陽の光に身をさらすことができない、という考えに行き着くのは容易かった。
対決に至れば、そこを突くことに躊躇はない。
そしてその結果は、二人の判断が正しかったことを示している。
だがその一方で、泰明は、昨冬に経験した別れと痛みを思わずにいられない。
自分と同じ、造られた存在であった者の末路を。
――晴咒は、その一生を陽の射さぬ洞窟しか知らぬままに終えた。
晴咒の抱く外界への憧れは、まだ見ぬ世界への憧憬だと思っていた。
しかし、それだけではなかったのだ。
晴咒は、晴源のかすかな心の残滓を、自らの心に受け継いでいたのだ。
咒い壊すことだけを晴咒に教えた師の心――
陽光から切り離され、人ならぬものになった晴源の、遠い記憶を。
「終わりじゃ。お前を永遠に封ずる」
晴明が一歩踏み出した時、何かが揺らめいた。
僅かに周囲が暗くなったような気がして、長任は空を見上げる。
しかし、黒雲の吹き払われた空は高く青く、先ほどと何も変わらない。
だが、泰明は瞬時に異変を見て取った。
小さな…まだ人の目では捉えることのできない変化が起きている。
「お師匠! 気をつけろ! やつが待っていたのは、この「時」だ」
地に倒れた宗主の背が、くぐもった笑いに震えた。
微風が止まる。
鳥の声がかまびすしく響き、そして消えた。
動きを失い、重く沈んだ大気の中、空だけが暗くなっていく。
宗主は立ち上がり、凄絶な笑みを唇に刷いた。
神泉苑の人々は、皆一様に暗い空を仰ぐ。
その視線の先で、太陽が欠けていく。
しばし沈黙が下り、次いで大混乱となった。
臨席した貴族の間から、悲痛な叫び声が次々に上がる。
「な…何と」
「今日は吉日ではなかったのか…」
「ああ…終わりじゃ」
「ひいいいっ!」
半ば腰を浮かせ、さりとて何をしたらよいのかも分からず、
混乱ばかりが大きくなっていく。
そのような中、
「松明を持て!」
「主上に灯りを! 各自の持ち場を離れるな!」
頼久と友雅が冷静な声で命令を下した。
衛士が高御座の周りを固めるが、
そのすぐ脇では右大臣が頭を抱えてうずくまっている。
神泉苑の門前で、あっけなく警護の武士に捕まっていた浅茅は、
彼らが動揺している間に、するりと逃げ出した。
「日の蝕み…貴様はこのために、天文の記録を…」
泰明の言葉に、宗主は笑みを浮かべたまま背を向ける。
「特別な儀式は、特別な日にこそ行われるべき…そうであろう」
そして、晴明に視線を向け、嘲るように言う。
「星辰の運行を読み解く法は、この役に立たぬ身体が覚えていた。
よく仕込んだこと、感謝してやろう、晴明」
「何を企んでいる! 晴源!」
「モノは沈黙せよ」
晴明と泰明が同時に術を放つが、宗主の背に届く前に中空にかき消える。
宗主は池の汀に立ち、水に向かって手招きした。
その唇から漏れるのは、逆祓えを唱えていたあの声だ。
来るがいい
佳き日の始まりぞ
黒雲に覆われた裏鬼門では、日が欠けていくにつれ、
異様な暗さが辺りを覆い始めていた。
だが、その理由を考えるほど余裕のある者はいない。
松明の光を頼りに、京職と検非違使達は、
かなり強引な手段で人々を止めにかかっている。
端から一人一人岸に戻しては、縄にくくりつけているのだ。
大津の陰陽師達は、池に漂う瘴気を祓おうと奮闘している。
だが暗がりの中、ぬかるんだ土の上を人を引きずって戻すのは大変なことだ。
滞った瘴気に踏み込んで倒れる者は後を絶たない。
「このままじゃ、埒が開かねえな」
京職の男が、仲間の放免者を集めた。
「お前達の護符を渡せ」
そして、手渡された札を、全部自分の懐に入れる。
「何をする気だ?」
衛門尉がやって来て問うと、京職の男は池の底に立つ「宗主」を指さした。
「元凶は分かってるんだ。考えてみれば簡単じゃねえか」
あまりに無謀な考えに、皆が一斉に止めようとするが、
その時にはもう、男は「宗主」に向かって池の斜面を滑り降りていた。
「安倍の守り札が、こいつに効くかどうか、
やってみなけりゃ分からねえが…うわっ!」
青黒い瘴気の塊が「宗主」から放たれ、京職の男は咄嗟に身をかわす。
「俺が目障りなのか、この札が嫌なのか」
さらに距離を縮めると、「宗主」は続けざまに瘴気を放った。
「できれば、札を嫌ってくれ」
男は護符を取り出して目の前に掲げ、回り込むようにして走る。
その後を追うように、「宗主」が向きを変えた時だ。
ぐぉん! と、地の底が震えた。
「宗主」が動きを止め、両腕を高く差し上げた。
童子と童女が再びその両脇に現れ、無邪気な笑みを浮かべて宙を漂う。
「我らの主が」
「お呼びです」
「この佳き日」
「白日は黒日に」
「清き水は暗き水に」
「京に」
「災いあれ」
ずぶずぶずぶ…と「宗主」が泥土に沈んでいく。
童子と童女はくるりと宙返りして老人の姿になり、
しわがれた笑い声を上げながら、「宗主」と共に地中に消えた。
その瞬間、泥が砂に変わった。
粘り気を失った足元の土が、池の底に向かってさらさらと流れ始める。
「うっ!」
足を取られて京職の男は倒れた。
手がかりを探すが、止める術なく、そのまま流されていく。
斜面の縁まで来ていた人々も、次々に落ちてきた。
必死で身を起こし、流れに抗って上ろうとするが、
前に進んだ分だけ、押し流されている。
振り仰げば池の淵は遠く、その上の空は限りなく深い闇。
その闇が京を覆いつつあることを、男はまだ知らない。
―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛
2.刻・迫る
3.破戒
4.土御門
5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑
8.裏鬼門
9.禍事
11.暗き水
12.冥き国
13.欠けた力
14.亀裂
15.神子
16.悲しみの日
17.狭間
18.花の還る場所
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2010.07.04 筆