水を失ったのは洛西裏鬼門の池ばかりではなかった。
大小の池沼の水、京を巡る川の流れまでもが、地中深く吸い込まれていく。
一方、神泉苑の人々は、日の蝕みに恐れおののきながら、
池の水かさが増していることに気づいた。
だがその水は、先ほどまで見ていた清らかに透き通ったものではなく、
黒く澱んだ暗きもの。
ひたひたひた…ひたひたひた…
暗き水は水際を洗い、水草を覆い、やがて宗主の足元を浸し、
岸から溢れ出て止まる気配もなく、さらに広がっていく。
呆然としていた大津の陰陽師達が、足を濡らす冷たい感触に我に返った。
「そ…宗主様…なぜだ」
「この儀式は…我ら大津のため、京のためと仰ったのに」
「あなたは大津の宗主では…ないのか」
宗主は彼らに冷たい一瞥を投げる。
「お前達の宗主は、己を捨てた一門に強い怨みを抱きながら
名も知られぬまま化野でとうに朽ち果てていた。
我はその屍から、死してなお消えぬ無念の思いを聞いてやったまで」
「何っ!」
「どういうことだ」
「我らを謀っていたのか」
「ここまで長らえたことに感謝するがいい。
宗主が病に倒れず、お前達と会っていたなら、
大津はその時に滅していたことだろう」
そして宗主はすうっと腕を上げ、暗い水を指さした。
「本当の宗主に会わせてやろう。そこまで来ている」
白い指の指し示す先で、水面が動いた。
黒い水を滴らせながら、裏鬼門から消えた大津の「宗主」が姿を現す。
「ひ…」
大津の陰陽師ばかりでなく、それを目にした者は全て声を失った。
血なまぐさい戦いに慣れた武士といえど、
首のない死人が動いている様を見せられては、恐怖の心を抑えられない。
動じていないのは、晴明と泰明だけだ。
泰明は祠に視線を走らせ、そこから「宗主」が見えないことを確かめる。
このような怖ろしい光景は、あかねの眼に断じて映したくないのだ。
宗主は安倍も大津も意に介することなく、岸辺に背を向けると水中に足を踏み入れた。
もう一人の「宗主」は、ぎしぎし…かしゃり…と水から上がり、
大津の陰陽師に向かって歩を進めていく。
祠の中、あかねは泰明の作った結界に包まれて、
次第に暗くなっていく外の様子を見ていた。
言葉はここまでは届かないが、人々の叫び声や怒声は聞こえてくる。
どのような言葉が交わされているのか、近づいて聞きたいと思うが、
外に出ることは泰明から厳しく禁じられている。
「今の五行の乱れは、尋常ならざるもの。
神子、絶対に無理はするな。
宗主もお前の存在に気づくはずだ。
だから…何が起きても祠から出てはいけない」と。
――二人で北山に隠れている間に、
泰明さんはこれまでのことを全部、話してくれた。
冬に起きた事件のことも、浅茅くんのお父さんが晴源さんだということも、
今は大津の宗主になっているらしいことも、全部…。
宗主が私を攫おうとしたのは、浅茅くんに壊された髑髏の代わりに
龍脈の力を呪詛する贄にするためらしい。
泰明さんは、その髑髏が本物の大津の宗主のものだと考えている。
晴明様と宗主が話している様子は、初対面じゃないみたいだ。
だとするとやっぱり、弟子の晴源さんだったんだろうか。
晴明様は闇に魂を喰われた…って言ってたけれど、
本当にもう、昔の心は残っていないんだろうか。
ぐらり…と目眩がして、あかねは祠の壁により掛かった。
ああ……太陽が、どんどん欠けていく…。
皆既日食…なのかな。
みんな驚いたり怖がったりしているけど、ええと…日食って、どれくらい続くんだっけ。
確か、そんなに長い時間ではなかったはず。
また太陽が出れば、これ以上怖いことはきっと起きない。
くらくらして、身体中から力が抜けそうな感じも、きっと治る。
泰明さん、みんな…、日食が終わるまで持ちこたえて…。
黒い水は泡立ち逆巻き、とめどなく溢れ出て、
広大な苑の隅々まで、ひたひたと広がっていく。
水に入った宗主は、沈むことなく黒い水面に立ち、
北岸に向かって歩き出した。
その動きに呼応して、鬼門から飛来した黒い瘴気が水中から浮かび上がり、
宗主の周囲で渦を巻く。
千切れた黒雲も再び集まり、稲妻を光らせながら宗主の頭上に降りてくる。
その背後には厚い水の壁が立ち上がり、
泰明達の術を弾いては、飛沫となって降り注ぐ。
かしゃり…かしゃ…
「宗主」は岸辺に上がると、首のない頭を巡らし、
大津の陰陽師達を見回した。
次の瞬間、「宗主」から吹き上がった瘴気が彼らを襲う。
だがその瘴気は、晴明の投げた小さな札に吸い込まれ、
ひらひらと落ちながら、僅かばかりの炎を上げて燃え尽きた。
晴明は、安倍家の陰陽師に身振りで指示を出す。
長任達は寸刻の遅れもなく、「宗主」の周囲に結界を張り巡らした。
晴明は印を結び「宗主」に向き直る。
「こやつはここで封じる。泰明、お前は先に行け!」
「分かった、お師匠」
泰明は再びちら…と祠を見て、あかねの気を確認すると、
晴源を追って走り出す。
太陽は半ば以上欠け、空の色は赤みを帯びて暗い。
帝のいる北岸には、すでに篝火と松明があかあかと灯されていた。
儀式をこれ以上進めることはできない。祓えは失敗に終わったのだ。
さらに不吉な黒日に加え、妖しの者が次々に現れたとあっては、
事は急を要する。
頭を抱え込んだまま動かない右大臣に代わり、
左大臣の指揮の下、帝の退出準備が慌ただしく進められている。
高御座の傍らには永泉が控え、数珠を握りしめながら、
対岸の様子を凝視していた。
何かが水の上を動いている…そう思った時、揺らめく灯火の中に、
広い水面を渡ってくる宗主の姿が浮かび上がった。
誰もが自分の目を疑うが、高御座の前に整列した衛士の一団は、
号令一下、躊躇うことなく矢を放った。
しかしそれらは宗主に届く前に、ほとほとと水に落ちていく。
宗主は不快げに眉を顰め、「退け」と呟いた。
二の矢を放とうと構えた衛士達の足元を黒い波がさらい、
悲鳴と共に池の中へと引きずり込んでいく。
宗主は真っ直ぐ前に腕を伸ばした。
立てた掌の向く先は、帝のいる高御座だ。
「行け」
何が起きたのか、皆が理解するよりも早く、
瘴気を纏った黒い水が高波となって高御座に押し寄せ、
台座もろとも破壊した。
精緻な彫り物を施した枠木が宙を舞い、
「主上っ!!」
何十もの絶望の悲鳴が、同時に上がる。
しかし波が引いた時……
水気の加護を受けた法親王…か
瘴気と宗主から、同じ言葉が同時に漏れ出た。
壊れた高御座の残骸に、永泉が肩を激しく上下させながら立っている。
瘴気の襲い来る直前、宗主の意図を感じ取った永泉は、
怖ろしさと畏れで目が眩みそうになりながらも、高御座に飛び込んだ。
そして「お、お許し下さい!」と叫ぶなり、帝を外に押し出したのだった。
「怪我はないか、永泉」
帝が進み出ようとするのを、「危のうございます!」と側近が押さえにかかる。
「私ならば…だ…大丈夫です。主上が…ご無事ならば…私など」
そう言いながら、永泉の足が震えている。
自分でも何が起きたのか、なぜ傷一つ負わずこうしていられるのか、
よく分かっていない。
「大津の宗主よ。罪なき者までも巻き込み、余を亡き者にせんと謀ったか」
帝は側近の手をきっぱりと振り払うと、水上に立つ宗主と向き合った。
その距離僅か四丈ほど。
山部王…の裔よ 傲るなかれ
儚き命一つ 奪う価値もない
「山部王…京の都を造りし帝のことか」
血を分けし者の言葉は聞かず
讒言に耳傾けし愚かなる帝のこと
宗主と瘴気、二つの声が重なり、地の底に吹く風のような音となる。
帝は、その声を知っていた。
「魔の者…お前は、祟道の御社に祀られし親王なのか」
宗主は笑った。
整った唇の形が大きく裂け、開いた口の中に黒い瘴気が吸い込まれていく。
「主上、これ以上お言葉を交わすのは、どうかお止め下さい」
永泉が帝と宗主の間に割って入った。
我の名は冥き国に消えた
我に名はなく 我は全ての名を持つ
黒い雲が、雷と共に宗主に呑み込まれた。
宗主の眼が、左大臣と右大臣を捉える。
そこに居るは、時平が裔か
諸共に滅び行け
宗主の姿が暗転した。
禍々しい闇の影が、蠢きながら巨きな人の形を模していく。
童子と童女が黒い水底から飛び出し、
上空をくるくると旋回しながら、けたたましい笑い声を上げた。
―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛
2.刻・迫る
3.破戒
4.土御門
5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編
7.神泉苑
8.裏鬼門
9.禍事
10.蝕み
12.冥き国
13.欠けた力
14.亀裂
15.神子
16.悲しみの日
17.狭間
18.花の還る場所
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2010.07.08 筆