花の還る場所  第四部

7.神泉苑


空は青く晴れ渡っている。
静かな…静かすぎる朝だ。
風も吹かず雲も流れず、世の全てが静止したかのように。

左大臣の一行が早朝に館を発った後は、
土御門も静寂に包まれている。

藤姫は、文台を部屋の際まで運ばせると、人払いをした。
取り出して台の上に置こうと、箱の中の龍の宝玉に触れた時、
布を通して伝わる熱さに、小さく声を上げる。

石の放つ熱と光は、日に日に強くなってきている。
鮮やかな光の色は、八葉の宝玉の色。
龍の宝玉は、再び八つに分かれようとしているのだろうか。

しかし今、八葉は欠けている。
震と坤、二つの地の理は、すでにこの時空を去った。
均衡が崩れ、かつてのような力が満ちることはない。

神子様……。

陽が動き、庭の池のきらめきが藤姫の眼を射た。
そろそろ儀式の始まる頃だ。
藤姫は庇に降り、まぶしい空を見上げた。





神泉苑では儀式の準備が滞りなく進み、
開始の合図を待つばかりとなっている。

広々とした池の北側には特別に高御座が設えられ、
その左右に朝廷の主立った顔ぶれが並ぶ。
儀式の祭壇は、南に張り出した汀を挿んで二つあり、
安倍家と大津の陰陽師が対峙する形になっている。

だが、大津の祭壇は異様であった。
黒い天蓋にすっぽりと覆われて、中の様子は隠されている。
もちろん宗主の姿を窺い知ることはできない。
大津の陰陽師達が列をなして場に現れた時も、
宗主は黒い布で覆われた台座に乗って運ばれて来て、
そのまま天蓋の中へと入ったのだった。

居並ぶ貴族達の中には声高になじる者もいたが、
右大臣が強硬な態度ではね除けた。
――儀式の目的を、お忘れか。
形の異様を咎め立てして、穢れを祓い浄める力を減じてどうするのか、と。

安倍の祭壇に立った晴明は、黒い天蓋を鋭い視線で一瞥したが、
後ろでざわめく弟子達を身振りで抑え、静かにその時を待っている。

同じ頃、洛外でも、安倍家と大津の陰陽師が儀式を待っていた。
京全体に渡る祓えゆえ、神泉苑での儀式と時を同じくして祈祷を行うために、
京の鬼門と裏鬼門にも祭壇が設けられているのだ。
鬼門に控えるのは、晴明の息子吉平が率いる安倍家の陰陽師。
裏鬼門には、大津の陰陽師が配されている。

大津の居館近くにある裏鬼門の祭壇にも、
神泉苑と同じく黒い天蓋が立てられていた。
すでに中には、宗主の高弟の一人が入っている。
宗主に倣い、儀式を主導するという。

その儀式の場を取り囲んで、街人が多数ひしめきあっている。
多くの者は、目ばかりを爛々と光らせ、何かを一心に待っている様子だ。
――大津の宗主様は、ありがたい祓えの儀式に立ち会わせて下さるそうだ。
そんな噂を聞きつけてやって来た者もいる。

「なんで人なんか集めるんだ…やっぱり胡散臭ぇな」
人混みの中、小声で呟く男がいた。
「こんなに大勢の中から見つかるもんでしょうかねえ」
隣のぼさぼさ髪の男がため息混じりに言う。
「そのために来たんだろうが」
連れと覚しき男が二人、首をひねりながら話に加わった。
「ガキの戯言じゃないんですかい」
「そもそもここは、左京識殿の縄張りじゃないでしょうに」

「俺ぁ、左京の人間を探しに来たんだ。文句あるか」
最後の一言で凄みをきかされて、男達は縮こまる。
「ありやせん…」
「よし、それでいい。
おっ、そろそろ儀式とやらが始まりそうだぜ」





ずるっ、どしん! 「痛っ」

浅茅はしたたかに打った脇腹をこすりながら立ち上がった。
これで何度目だろう。
どうしても乗り越えられない塀を、恨めしげに見上げる。

結界が張ってあるのは承知の上だ。
だが、塀の結界は外からの侵入を防ぐものと聞いている。
だったら、中から出ることはできるかもしれない。
そう考えて、よじ登ってみたものの……

塀のてっぺんに手を掛けると、いきなり手がかりが消えてしまうのだ。
何もない空間を掴んでしまったなら、そのまま落ちるしかない。

もちろん、門から出られればよいのだが、
見習い係の兄弟子から、厳しく申し渡されている。
「今日は大切な儀式があるんだ。
お師匠様達が出払ってしまうからって、遊びに出かけるんじゃないぞ。
見習いは屋敷から出ないで、おとなしく掃除と水汲みをして待つんだ」

しかし、言いつけに逆らい、まだ目を覚まさない母を置いてまで、
屋敷を出なければならない理由が、浅茅にはある。

――大津の宗主は安倍晴源ではないか、と
兄弟子達が囁き合っているのを、耳にしてしまったのだ。
その時以来、この眼で確かめなければ…と思い詰めている。

早くしないと、儀式に間に合わない。
よし、もう一度!

擦りむけてひりひりする掌に息をかけ、浅茅が再び塀に手を掛けた時だ。
「無駄だ。安倍家の結界を侮るな」
「ひぃっ!」
いきなり声をかけられて、浅茅は固まった。
きつい声と言葉で、誰なのかはすぐに分かる。

浅茅はしおしおと振り向き、ぺこんと頭を下げた。
「ごめんなさい、行貞さん」

本来ならば、神泉苑か鬼門の儀式に参加してしかるべき行貞だが、
まだ怪我が癒えないため、留守居役の総指揮をしているのだ。

一番見つかりたくない人に捕まってしまった…。

しかし、がっくりとうなだれた浅茅にかけられたのは、
思いもよらない言葉だった。

「堂々と門から出ればいい。門衛には俺が話をつける」
「へ?」
ぽかんとした浅茅に、行貞は苛立ったように言った。
「神泉苑に行きたいのなら、急げ。責任は俺が取る。
お前の母御は看ていてやるから安心しろ」
そして浅茅の返事を待たず、早足で歩き出した。
「あ、ありがとうございます…」
浅茅は慌てて後を追う。

門衛とのやりとりはすぐに終わった。
行貞の言に、門衛が否を言うことはない。

「急ぎの用で見習いを遣いに出す」
「はい、ええと…この子は」
「浅茅です。行ってきます!」

ぴょこんと頭を下げると、浅茅は神泉苑へとまっしぐらに走った。

場所は知っているが、もちろん足を踏み入れたことなどない。
入り口がどこにあるのかさえ、分からない。
神泉苑の周囲では多くの武士が警護に当たっているから、
入れる場所を探してうろうろしていたなら
すぐに見つかってしまうだろう。
とがめ立てされずそっと中に入るには……

浅茅は胸に手を当てた。
そこには、行貞から渡された札がある。
その札を使うための呪を、心の中で何度も繰り返す。

――隠形の札。
初めての呪、初めての術だ。
でも、失敗することはできないんだ。

浅茅は前だけを見て走っていく。





刻を報せる太鼓の音が響き、儀式の開始を告げた。
太鼓の余韻が消えると、静寂が神泉苑を包む。

頼久は油断なく左大臣の周辺に目配りし、
背の高い武士の中に沈んで周りの見えないイノリは、
師匠の刀を握りしめた。
鷹通は姿勢を正して真っ直ぐに安倍の祭壇を見ている。
友雅は警護の配置が動いていないことを素早く見て取ると、
行儀良く座っている鷹通に眼をやり、
源氏の武士団の中に見え隠れしている小柄な「武士」に、
可笑しそうに眉を上げた。
永泉は慎ましやかに眼を伏せながらも、憂い顔を隠せない。
張り詰めた箏の弦のように、いつ弾けるとも知れない不穏なものが、
空気の底に流れているを感じているのだ。

祭壇の上に立つ安倍晴明もまた、同じものを感じている。
だが、漠たる不安に動じる晴明ではない。
この儀式に臨んだのは、禍事を防ぐため。
その決意に揺らぎはない。

静寂を破り、晴明は朗々たる声で祈祷を開始した。


そして神泉苑の、とある一隅。

「神子、儀式が始まった」
「はい、泰明さん」

あかねの冷たい手を、泰明はしっかりと握りしめている。





同じ頃、裏鬼門の祭壇の中――

大津の陰陽師の眼前に立ち現れたものがあった。
黒い帳に覆われた薄闇の中、
それは不気味な光を帯びた暗紫色の瘴気を纏っている。

瘴気の中から浮かび出たその姿に、
大津の陰陽師は恐怖に声もなく立ちつくし、
やがて崩れるように倒れ伏すと、そのまま事切れた。

「祓えの祈祷は」
「宗主様がなさるもの」
中空に、童子と童女が浮かび出る。

ゆら…と瘴気の塊が動き、両の腕を広げた。
それは大津の装束を纏った、人の形。

童子と童女はくるりと回り、老人の姿になる。

「さあ、祈るがよい」
「その黒き言の葉で」
「本物の…」
「大津の宗主殿」

二人はしわがれた声で笑った。



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―― 花の還る場所 ――
第四部
1.呪詛  2.刻・迫る  3.破戒  4.土御門  5.思いを抱いて・前編
6.思いを抱いて・後編  8.裏鬼門  9.禍事  10.蝕み  11.暗き水
12.冥き国  13.欠けた力  14.亀裂  15.神子  16.悲しみの日
17.狭間  18.花の還る場所

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2010.06.20 筆